人生にはいろいろな瞬間あれど、僕がこれまで数々の体験をしてきていま強く思うのは、「あなたは余人を持って代えがたい」ということを丁寧に言語化しながら、それを相手に伝えること、この瞬間が、一番多幸感溢れる瞬間だなと。

それは言われた自分が、ではなく、それを言っている自分自身に、です。

もちろんこのときは、言葉だけでなく、態度でもそれをしっかりと示し、「この世に存在してくれていてありがとう。私はそのことにとても助けられているし、本当に心から嬉しいです」ということを、いかに相手に対して誠心誠意伝えるかが重要。

そのことにおいてどう伝えるか苦心しているときが、何よりも自らにおいて多幸感があるなあと思うんですよね。

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そう、それをどうやって伝えるのか、自らが「苦心」しているときなんですよね。スルスルとタテマエとしての言葉が出てきてしまうときではない。

感情が先立ち、言葉にならない言葉をどうにかして、相手に対し祈るように伝える時、このタイミングにおける多幸感は、他には一切存在しないタイプの多幸感を与えてくれるなあと。

「人を褒める」こととも紙一重だと思われるはずなんですが、それともまったく違う感覚なのですよね。

これが本当に不思議で仕方ない。

しかも、これは、どんな相手に対してもそうなんですよね。

つまり、相手の素質や肩書、立場とかは一切まったく関係がなく、自分自身がが覚悟を決めたらなら必ずそうなるから、不思議です。

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じゃあなぜそうなるのか?    それを今一度真剣に考えてみたいなあと。

まず、ChatGPTに聞いてみたところ、以下のような回答が返ってきました。

それは相手を深く理解し、尊重し、その存在そのものを価値あるものとして認める行為です。このプロセスは、相手だけでなく、伝える側にも深い満足感をもたらします。

なぜなら、このような言葉や態度を通じて、私たちは自分自身の感情や思考を表現し、共感や結びつきを築くことができるからです。


なるほど、たしかにこれは本当にそのとおりですよね。

そして、僕はこの「結びつき」という部分に、なんだかとてもハッとさせられてしまいました。

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というのも、先日Wasei Salon内で読書会を開催し、このブログでも既に何度かご紹介している戸谷さんの『スマートな悪』という本の中に「結ぶ」に関連する話が書かれてあったから。

これがなんだかとても美しいお話で、非常に強く印象に残っています。

もしかしたら、今日の内容にも少し関連してくるのかなあとも思うので、少しご紹介してみたいと思います。

    本書は、「結ぶ」という言葉を慎重に選択している。結ぶということは、二つのものを同化させることではない。何かと何かを結ぶということは、結ばれるもの同士が、その差異性をもったまま結合することであるからだ。     
    たとえば草に紐を結ぶとき、草と紐は結合する。しかしそれは、草と紐が一つに溶け合い、もはや草でも紐でもないものになる、ということを意味するわけではない。草と紐は、たとえ結ばれているのだとしても、依然として草と紐である。つまりそこでは結ばれているもの同士の差異性が維持されている。ここに、結ぶということの特徴が表れている。すなわちそれは、異なるものを、異なるものとして、異なったままに結合する技術に他ならない。


つまり、相手を変えてしまうわけでもなく、吸収するわけでもなく、同化してしまうわけでもない。

その差異性を保ったまま結合することが結ぶの意味だとしたら、両者がそのように、個を保ったままつながることによって、何か別のすごいことが起きているのかもしれない。

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じゃあ、一体そのときに何が起きているのか。

ここから少し哲学的な話になってくるのですが、以前もこのブログの中でご紹介したことのある『今を生きる思想 西田幾多郎 分断された世界を乗り越える』という本の中で語られていた哲学者・西田幾多郎の思想に、そのヒントがあるなと思っています。

以下でまた本書から少しだけ引用してみたいと思います。

    西田によれば、私たちはそれぞれの底に「絶対の他」を認め、それを通して「私と汝とが相触れる」という。私とあなたとは「絶対の他」として隔てられているけれど、それを通して私とあなたは互いを知る。私たちは互いに「絶対の他」であるので、お互いを完全に理解することはできない。しかし、だからこそ、私たちは言葉を尽くして話し合うのだ。言葉を通して応答し合い、それが相手にとって反響となる。そのような関係を通して、私はあなたを、あなたは私を、知ることになるのだ。     


さて、ここでの肝の部分というのは、僕らはお互いを「絶対の他」の存在として、認識し認め合うことによって、僕らは相手のことをはじめてちゃんと知ることができるということです。

もし、そのタイミングにおいて「余人を持ってもいくらでも変えられる」と思い混んでしまっていたとしたら、こちら側の相手への期待や役割の思い込みを、ただただ押し付けることになってしまい、それは相手のことを真に理解することにはつながらない。

ここで、「絶対の他」であるという「余人を持って代えがたい存在」として、相触れることによって、相手のことを真の意味で理解できるようになるんじゃないでしょうか。

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そしてさらに、その相手だけでなく「自分自身さえも知ることができる」ということが、実はもっと大事なことなのかもしれません。

それは一体どういうことか?

本書では以下のように続きます。

また西田は次のようにも書いている。「応答によって私が汝を知り汝が私を知ると考えられると共に、汝の応答なくして私は私自身を知ることはできない、又私の応答なくして汝は汝自身を知ることはできないと云うことができる」。つまり、私とあなたが応答し合うことは、ただ相手を知るだけでなく、自分自身を知ることでもある。私とあなたが応答し合う関係、あなたに「あなた」と言ってもらえるような関係を通じて、私は私自身を知ることができる。この時、あなたは私を映し出す鏡となっているのである。


「本当にこれだ!」って思うんですよね。

ここが今日、一番強調したいポイントでもある。

これは、過去に何度もご紹介してきた、苫野一徳さんの愛の定義「合一感情と分離的尊重の弁証法」にも通じる話です。

他者を通して、本当の意味で「私」という”存在”を知ることができる。つまり、他者の関心事に関心を寄せることの重要性、その「余人を持って代えがたい存在」と認識することの意味は、まさにここにあるんだと僕は思います。

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この点、少し話は逸れるのですが、以前、「100de名著」の『古今和歌集』の回で、講師の方がおっしゃっていて、本当にそのとおりだなあと思ったことがあります。

それが何かといえば、僕らは「わかりあえなさ」を通じて、それでも言葉にしようと伝えようとしているから、そこに面白みがあるんだ、というような話です。

わかりあえている者同士、たとえば付き合いたてのカップルの話なんかを傍から聞いていてもなんにも面白くないと。なぜなら、そこには言葉なんか必要ないからだと。

でもわかりあえないから、言葉を尽くして相手に伝えようとするわけです。

さらに、古今和歌集に集められているような和歌の場合、そのすごさは、そのような他者の「絶対の他」をさらに飛躍させて、自らの感情を自然の情景と結びつけているところでもあるのかなあと。

つまり自然描写の表現を通して「今の私には自然がそう感じられた」ということを表現し、その自らの気持ちを必死で相手に伝えようとしているわけですよね。

これは一体何をしているのかと言えば、本来であれば、何も変わらないはずの自然をみて、この情景を切り取りたいと思うほどに、自分が変わってしまったということでもある。

端的に言うと、自然が変わって見えるのです。養老さんのよく言う、余命宣告された人間は、去年までの桜がまったく違って見えるというあの話ですよね。それは他でもなく、自分が変わったからだ、と。

他者を知り、「私」を知り、その結果として自然の見え方さえも変わってくる。

ここまでの一連の流れを、あの短い文字数の中で行ってしまうから、和歌とは本当にすごい文化だなあと思ってしまいます。

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話をもとに戻すと、この感覚を得られる気持ちよさが、他のものとはまったく異なる
多幸感を生み出すというのは、ある意味で当然のことなんだろうなあとも思います。

他では、こんな体験はなかなかできない。

ただ、もしこれが、同じ他者であっても「烏合の衆」となってしまうと、話がまったく変わってくる。

つまり余人を持っていくらでも変えられる顔のない他者になると、そこには絶対の他が存在しなくなり、常にそれは私にとって不愉快な存在であり、私は、その烏合の衆を払い除ける対象としてしまう。

結果として心を閉ざす「嫌な自分」もそこに立ちあらわれてきてしまう。

ひとりひとりとちゃんと余人を持って代えがたい存在として向き合えていれば、もしかしたら、まったく違う自分と出会えたかもしれないのに。

これは完全に余談ですが、宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』は、この烏合の衆を本当に鳥として描いてしまっていたところがマジですごい。

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最後に、だから本当に自分の眼前に広がる人々の数や規模感なんかの話ではないはずです。

それよりも、他者と通じて、絶対の他として、相手がそこに存在していることをお互いに認めること。

余人を持って代えがたい存在として、顔のある他者として存在を認めると自分自身を知れる。いやそのときはもはや自己なんて枠を超えて、私の背後にある「超越的な存在」そのものを知ることにも、つながるのだと思います。

結果として、その体験自体が多幸感にも通じている。これが、僕はすごくおもしろいなあと思う。

最後はもはや宗教性のような話で、人によっては変な話に聞こえてしまったかもしれないけれど、僕はここを突き詰めていきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。