最近、なぜか突然始まったVoicyのネガティブ・フィードバック祭り。

ネガティブフィードバックの主張は、主に2点あるのかなあと思いました。

・突如始まったボイスドラマのイラストの雰囲気が気に食わない。
・ホーム画面のリコメンド欄がほとんど機能していない。


どちらも、自分自身がユーザーとして、たしかにおっしゃるとおりだなとも思いつつ、ここに来て一気に配信者側からも不満が噴出してきたのは、また別の要因があるのかもなあと思っています。

具体的には、主にインターネット上のマーケティングなどを強みとしていたビジネス界隈のひとたちが、時代の変化と共に、新規の顧客を取れなくなってきたというのはかなり大きいと思います。

上り調子のときは、イケイケドンドンで小さなことは誰も気にしない。一方で、下り調子のときは、外部的な要因に、その下がり調子の原因を求めたくなってしまう。

日本の経済の問題なんかとその構造は全く一緒だなあと思います。私は一切悪くはないのに、プラットフォーム(国で言えば国家行政)がうまくやってくれないから悪いのだ、と。

時代やトレンドの変化なんだから仕方ないと思うけれども、あまりそうとは考えない。

「同じ方法で過去にうまくいっていたんだから、これからも同じようにうまく行かないのはおかしい!」という無意識の思い込みみたいなものが、そこにはあるのでしょうね。

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さて、ここからが今日の本題なんですが、一通り主要な意見を見聞きして改めて思ったのは、現代社会には「自分に関係ないものは、一切観たくない」と願うひとたちが一気に増えたんだろうなあということです。

「視界には入るだけでも不快だ、ミュートさせてくれ」と。

でも、それって「公園の騒音」に文句つけているひとたちと、さほど変わらない気もしています。

もちろん「何を観たい・何を聴きたいと望むのか」それは完全に個人の自由だと思います。

でも、そうやって自分が観たくないものは、運営側のプラットフォームやアルゴリズムのちからによって自分から積極的に遠ざけてくれ!と願ってしまうことによって、自らにどのような変化が起きるのかも、合わせて考えてみたいこと。

言い換えるならば、実際にそうやってプラットフォームの力、アルゴリズムの力によって自分にとって不快なものを遠ざけられた人々の末路も、同時にちゃんと確認してみておいたほうがいいと僕は思います。

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この点、以前もご紹介した、コロナが明けてから、毎週末のように行われている推し活イベント。


ここに集っているひとたちは、アルゴリズムによって自分の観たいものしか見せられていないひとたちなのだろうなあと思わされます。コロナ禍の3年間、アルゴリズムに支配された結果、まさにあの場に集まっている。

ライブやフェスなどは2019年までにも同様にあったけれども、どうしてもソレとは全く似て非なるものに、僕には見えてしまうのですよね。

ど直球に言語化することはなるべく避けたいですが、自分で考えることをやめた人たちの顔というのは、本当になんというか、どこか似たような表情をしていて、自分は絶対にこうはなりたくないなあと思わせられる「何か」がある。

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スマホに自分自身の行動や魂を乗っ取られて、自分たちが観たいと願うユートピア的な世界観しか日々観ていないひとたちに、共通している表情や佇まいのように思います。

それは、普通にスマホを持ってさえいれば決して逃れることができない罠でもあり、僕もそのような状態に取り込まれてしまうような動画系のプラットフォームかにはなるべく近寄らないようにしています。

Twitterに流れてくる動画も絶対に自動再生はさせない。そうやってできるだけ、推し活と名のつくものには近寄らないようにしている。

すぐにアルゴリズムに最適化された「リコメンドの津波」に飲み込まれてしまうからです。

アルゴリズムというのは「資本の他社性」と全く同じ論理で、あなたの幸せのことなんて一ミリも考慮なんかしてくれません。


最初は欲しい情報がドンドン流れてくるから、あなたの幸せにことごとく寄与してくれるものだと思うのだけれども、実際のところはそうじゃない。

このたとえだと雪国育ちの人しか想像できないかもしれないですが、それは、容赦なく降り積もる雪みたいなものです。

ホワイトクリスマスにおける雪はムードを高めてくれて、確かに素敵かもしれないけれど、とめどなく降り積もる災害級の積雪や雪崩は、本当に人命を奪うものです。

そこに人間への配慮なんて一切ない。まさに自然界の「他者」なのです。

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さて、あとは「自分に関係ないものは一切観たくない」と主張する人たちに対して、一番不思議だなあと思うのは、文句があるなら淡々とその場を去ればいいだけのはずなのです。

でも、実際にはそれでも、そのプラットフォームを使い続けているわけですよね。

公園の騒音の話で言えば、家は不動産だから気軽に移転できないのかもしれないので、理解もできますが、それでもやっぱり「引っ越しの自由」はある。

それに比べてスマホのアプリなんて明日から開かない、今アンインストールすることで終わる話です。毎日利用しているからっていう理由で、大したお金を払っているわけでもないのに、運営側に文句をつけようとする、その権利が自分にはある、と思うこと自体が本当にある意味ですごいことだなあと。

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そして、その声は決して彼らには届かない。彼らプラットフォーム側が観ているのはいつだって「数字」であって、個々人の意見じゃない。

特にVCが入っているスタートアップは、間違いなく「数字が命」みたいなところがありますからね。

もちろん意見も観ているとは言うけれど、意見の受け取り方はひとそれぞれ。世界認識によるところも非常に大きいはずです。ストレス耐性の強い起業家やチームほど、その厳しいフィードバックも愛のムチだって思いたければ、良くも悪くもいくらでもそう思えてしまいます。

つまり、それは退会時のアンケートと似たような効果しか及ぼさない。本当に自分たちに有利に動いて欲しかったら彼らが観ている「数字」を変えるしかないわけです。

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僕自身も、最近はVoicyを聴く側としての時間は、一気に減らしました。

苫野一徳さんや佐々木俊尚さんなど本当に自分が聴きたいと思える一部の人たちのフォローを数名だけ残して、そこで空いた時間を再びオーディオブックを聴く時間に当てています。

でも、オーディオブックのプラットフォームほど、ホーム画面はラノベやご自愛系のビジネス本ばかりが並びます。

自分が聴いたコンテンツの関連作品としてリコメンドされる作品も、まったく自分には関係のない作品ばかりです。それは、Voicyなんかの比じゃありません。

でも、それも特には気にはならない。自分で聴くものを決めて、それらだけを選んで淡々と聴いているからです。

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むしろそのホーム画面を眺めながら「あー、世の中には、こういうのを必要とするひとがいるんだなあ、売れているんだろうなあ(売りたいんだろうなあ)」と思うだけです。

逆に、普段その界隈のひとたちとはほとんど交流がないから、社会勉強にもなる。まさに書店巡りをするような気分です。

書店の中で「この表紙はけしからん、俺の視界に入る場所に並べるな!」って言っているひとがいたら、それは狂気ですよね。でも、なぜか同じくオンライン書店のような立ち位置にあるプラットフォームには、その主張がまかり通ると思っているひとが大量に存在する不思議。

自分と意見や価値観が異なるものほど、ちゃんと視界の片隅で観ておくことは、意外とこれからものすごく大事なことになってくることだと思います。

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本当に期待しているのなら、自らの意見ではなく、自らの行動を淡々と変えていきたいもの。

それが一番理想に近づくための方法だと僕は思います。

また、本当に欲しいコンテンツは、自分たちの手でつくりだそう。今はプラットフォームだって、オンラインコミュニティだって、欲しい情報が集まる場所は、自分たちの手で作り出すことができる時代でもあるわけなのだから。

このWasei Salonも、そのような場としてゼロから自分たちの手で改めてSNSをゼロからつくっているような気持ちでいます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。