「なぜNFTにハマっているんですか?」

ここ半年ぐらいのあいだで、一番よく聞かれてきた質問です。

そして最近気づいたのは、その質問の背後には「NFTには一体どんな可能性があり、何が具体的に実現できると思っているのか?」という質問が見え隠れしているなあと。

そういった疑問をぶつけてくださる方々に対して、ご満足いただけるような説明ができなくもないなとも思いつつ、その思考の運び方自体に、どこか違和感があるなと思いました。

もちろん、僕自身も実際にVoicyの中でそのようなことを過去に何度も語ってきたけれど、それはあくまでも、他者を納得させるための方便的な話です。

自らの内側にある本当の欲求としては、「どんな可能性があるのか、そして何の役に立つのか、全くわからない」部分に対して、僕自身が強烈におもしろみを感じている。

その可能性が無限大で、完全に手探りな状態だと感じているからこそ、今このタイミングでハマっているんだという僕の本音について、今日はちょっと書いてみたいなとお見ます。

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この点、多くの人は、広義の「仕事選び」においては、将来の可能性やその成長性をしっかりと吟味してから参入しようと考えているようです。

「ある程度、霧が晴れて、その可能性自体もハッキリして山頂が完全に見えたタイミングで、私も山を登り始めたいのだ」と。

でも、そこまですべてのお膳立てが整うと、あとはもう札束の数や時間配分の勝負になってくる。

例えば、2023年現在のブログやウェブメディアの文化なんかは非常にわかりやすい。

10年前のブログ文化と、現在のブログ文化は全く異なります。

いまは誰でも簡単に参入することができて、誰でも簡単に広告を貼り付けたり、有料記事をつくったりできる。

どんな作業をすれば、だいたいいくらまで稼げたりするのか。それを自らの事業にどのように活かすことができるのかなども含めて、細かい部分までもう完全に明確に理解できる。

書店でも、そのようなことを素人に対して懇切丁寧に教えてくれる書籍はいくらでも売っています。

でも10年前はまだ、そんなことが全然ハッキリしていませんでした。

ブログを使えば何でもできそうだけど、実際に何ができるのかは、未だ発明されきっていない雰囲気がそこら中に存在していました。

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そして、今のNFTは、10年前のブログ以上に、ものすごく霧がかかっている状態なんですよね。

だれもまだわからない、完全に手探り状態です。専門家なんて誰一人として存在していない。

一寸先は、闇です。でも、この先に大きなフロンティアが待っていることもなんだか間違いなさそうであることも何となくみんなが直感的に感じ取っている。

そして、一般的な人々は、このリスクを極端に毛嫌いする傾向にあるように感じます。本当は、この「わからなさ」こそが一番の魅力であり、楽しいポイントにも関わらず、です。

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さて、話が少し逸れますが、内田樹さんが以前とっても面白いお話を書かれていました。

それが、「あなたって人間がよくわかった」というのは、愛の終わりに告げられる言葉というお話です。

様々な書籍の中に書かれているお話ではあるのですが、「緩和医療学会と i-pod と『土蜘蛛』」というブログ記事が一番わかりやすかったですし、誰でも無料で読める記事なので、この記事から少し引用してみたいと思います。

コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合うものたちの間でのみ成立する。
「だから、もっとあなたの話が聴きたい」という「懇請」(solicitation) がコミュニケーションを先へ進める。
「あなたの言うことはよく分かった」と宣言したときにコミュニケーションは断絶する。
それは恋愛の場面で典型的に示される。
「あなたのことがもっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、それは言い換えれば「あなたのことがよくわからない」ということである。
論理的に言えば「よくわからない人間のことを愛したりすることができるのだろうか?」という疑問だって「あり」なのだが、そんなことを考える人間はいない。
逆に、「あなたって人間がよくわかったわ」というのは愛の終わりに告げられることばである。
「あなたって人間のことがよくわかったから、結婚しましょう」というように言葉が続くことはない。
引用元:緩和医療学会と i-pod と『土蜘蛛』 - 内田樹の研究室 


ひとは、相手がどんな人間なのかわからないからこそ、それを知りたくて相手のことに自然と興味を持ち、気づいたら好きになってしまっている。

僕はそれが正しい愛や友情の始まり方だと思うのです。

でも、今はそうじゃないのかもしれませんね。

そう言えば最近、とある女性評論家の方が、とある人気アニメ映画を批評しているときに、「なぜ、この主人公とヒロインが恋に落ちたのかが全くわからない」と語っていました。

わからないからこそ、始まるんじゃないかと思ったのですが、以外にもそうじゃないらしいのです。

お互いが好きになるための「合理的な理由」が先に存在したうえで、恋愛が始まらないとおかしいと信じているんだろうなあと。

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現代がそんな時代背景であれば、マッチングアプリが流行る理由というのもよくわかる。

自分の願いや希望のようなものが、まずわかりやすく確固たる条件として先に存在していて、それに見合う相手をみんなが必死で探している。

そうじゃないと、マッチングアプリのようなプラットフォームが機能するわけがないですからね。

でも、そうやって見つけた相手というのは、どこまでいっても「減点方式」にしかならないと思うのです。

なぜなら、たとえどんな相手が私の目の前に現れたとしても、そんな私の中に存在している「イデア」のようなものと比較した場合には、必ず劣るに決まっています。

観念的に創造しているもののほうが、現実に勝るのは間違いないのですからね。

万が一、最初は理想通りで完璧な存在であったとしても、ひとは必ず変化していきます。

もちろん、それは私自身も例外ではなく、私の中にある理想像的な「イデア」だって私と同時に変化していく。

そうすると、いつかは必ずどこかでズレが生じてきて、最終的には修復不可能な状態まで達して、決別することになるでしょう。

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さて、話をもとに戻すと、このお話は人と人とのコミュニケーションに限らないと思うのです。

仕事だって、この話とまったく一緒のことが言えると思う。

本来は、「わからなさ」というのが、一番の魅力のある状態のはずです。

「わからないから、もっと知りたい、詳しくなりたい!」そうやって、その事象を追求し続けている過程が、なんとなく楽しいから、そっちの方がワクワクするからという理由でそれを探求することが人間の探求する動機になるはずなんです。

でも、多くの人は、仕事の時ほどなぜか保守的になりやすい。

だから、それに一体どんな可能性があるのか、何が実現できるのか、私はいくら稼げるのか、それが明確になるまでは一歩も動こうとはしません。

でも、内田樹さんの恋愛やコミュニケーションの話に置き換えて考えてみれば、それがいかにおかしなことであるのかにも気づいてもらえるはずなんです。

そんなひとにとって、仕事が退屈でつまらないものになってしまうのも当然です。すべては減点方式になるわけですから。

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また、どんな新しい技術やテクノロジー、未来の可能性あっても、少しずつその全貌が明らかになってきて霧が晴れてしまうと、みんなが一斉に参入してきてしまう。

冒頭でも書いた通り、そのときには「資本」と「労働力」の投下勝負になってくるので、個人の介在する余白なんてものは一切存在しなくなってしまう。

ニッチなすきま産業的に、田舎で「パン屋」を開業することぐらいしか個人にできることはなくなってしまう。

つまり、人間がワクワクできる探究心的な面から言っても、ブルーオーシャンからレッドオーシャンに変わるタイミングの面からいっても、まだ海の物とも山の物とも区別がつかぬタイミングで参入するのが一番楽しいし、それが大化けしていく可能性があるんですよね。

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「わからないからこそ、わかりたい」この過程を楽しむことが、ひとにとって人生という旅を目一杯楽しむための秘訣なのだと思います。

好きになるための合理的な理由を求めることは、間違っていると僕は思います。

好きなことに、合理的な理由なんていらない。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの参考になったら幸いです。