ChatGPTやAIアートの登場によって、地味にとっても興味深い現象だなあと思っていること、そのひとつに、これまで絵や文章をかくことに対して苦手意識を持っていた人たちが、こぞってそのAIが生成した”作品”をSNS上にシェアしていることがあります。

本来表現すること自体に苦手意識があるタイプのひとは大抵、自らが表現したものを、他人に見せるのを極端に嫌がったり恥ずかしがったりするはずなんですが、AIにかいてもらった絵や文章というのは、カンタンに他人に見せられる。

それをこの世界に生み出したのは、紛れもなく自分であるにも関わらず、です。

そうやって他人に見せることに対して躊躇しない、恥じらいを感じなくなるというのはすごくおもしろい現象だなあと思います。

「そんなの、当然だろう」と思われるかもしれないですが、そうでもないと思うのです。

なぜなら、AIを使おうがPCを使おうが、ペンを使おうが筆を使おうが、何かの道具を用いて、この世界にソレを私が顕現させたという事実自体には、何も変化はないのですから。

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そして、「それはさすがに極端な仮説だ」と思われてしまうかもしれないのですが、AI万能説が広まると、最終的には人々の「無思想性」につながっていくのだと思うのです。

最初のうちは、助言や代行を担わせていたAIに対して「AIの表現は間違いない、これに従っておけば間違いない」ということになりかねなくて、そうなっていった場合には、ドイツの親衛隊隊員だったアドルフ・アイヒマンにとってのヒトラーやナチスのような存在になっていく可能性も、十分にあり得る。

ちなみに、アイヒマンの「無思想性」の話については、このブログでも過去に何度も言及してきたことがあり、一番わかりやすいのはこちらのブログになるかと思います。

参照:タテの関係か?ヨコの関係か?

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最近、連日Voicy内でもお話しているとおり、ひとは、いつだってその時代における「正しさ」や「権威」を隠蓑にして、服従したがる自己を暗黙のうちに肯定し、多くの人々は何も考えずに、「無思想性」へと向かってしまいます。

この点、確かに今のAIの精度はそこまで高くはないかもしれません。

ある意味では、その精度の低さなんかをバカにするような感覚で、みんなでシェアして面白がっているフェーズであることも十分に理解しているつもりです。

そうやって、意識を持たない、つまり「非人間的なもの」として、まるで奴隷や執事のように扱いながらも、急激にその対象が知恵を獲得していったら、次第に倫理や道徳観は、そちらに譲るようになっていくはずです。何でも教えてくれる「使えるヤツ」として。

少なくとも、親がそうやって、AIの助言に日々従う姿を子どもたちが連日眺め続けていれば、子どもたちは絶対にその姿を真似するようになるはずです。

それは僕らが幼いころ、幼稚園や小学校の先生の言うことが絶対であり、世界の正義だと信じて疑っていなかったように。

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その結果として、何かがドンドンと先鋭化していき、世の中で悲惨な出来事が起こると「私たちはあの指導者(AI)に騙されていたんだ」と開き直り、被害者を演じるようになると思います。

世界は、本当にずっとこの繰り返しのような気がしています。何も過去の失敗からは学ばない。

もう、誰かひとりの人間を英雄(ヒーロー)や現人神のように讃えあげて、全体主義には向かうような愚行は犯さないと誓ったのかもしれないけれど、世界中の人がアクセスするAIが、今度はその”中心人格”になっていくだけとも言えそうです。

だからこそ、僕が今ここであらためて主張したいことは「この世界に、AIを通じてこの事実を顕現させたのは、紛れもなく自分である」その自覚がものすごく大事にしたほうがいい、ということです。

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だって、そもそも私の自由意志なんてものは、あってないようなものなのですから。

すべては、周囲との関係性の中で生成される縁起の産物であるとも言える。

だからこそ、付き合う人や自己が身を浸す環境によって引き出されるアウトプットは全く異なってくるわけで。

であれば、その創造のプロセスに関係してくる周囲の関係存在の中のひとつに、AIというものが増えただけとも言えそうです。

この点、もし「山にいるときに生み出したアウトプットには責任を持つけれど、海にいるときに生み出したアウトプットには責任は持ちません」と主張しているひとがいたら、完全におかしなひとだと思うはず。すべては本人の責任です。

それと全く同様のことがAIにも言える。それが海だろうが山だろうが、ペンだろうと筆だろうが、AIだろうが同じこと。

周囲の環境によって選ばされた事柄、そのすべての意思決定が「私」自身であり、私が生み出したものであると思えるかどうか、今の僕らには問われているのでしょうね。

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あとは、やっぱりこんな世の中になっていくことが明らかだからこそ、他でもないこの私自身が体験したことによって、自らの内側から立ち現れてくる実感地のある感覚のほうに、しっかりと目を向けていくことが大事なのだと思います。

身体性を絶対に持ち得ないAIが、身体性を絶対に必要とする人間に対して、何か大切なことを教え諭す世界がそう遠くない未来に必ずやってくるのだから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が、何かしらの参考となっていたら幸いです。