「仕事よりも、自分の家族や自分の健康を大事にしよう」という社会的な価値観の変化は、ものすごくいい風潮だなあと思います。

この価値観がもっともっと、当たりまえのものになっていけばいいと心の底から思う。

そんな中、先日、家族の健康を優先して仕事を欠席するというひとがいたときに「そうなることが始めからわかっているから、家族も子どももつくっていないひとだっているのにね」という言葉を耳にしました。

たぶん本人は何気なく言ったのだと思います。

ただ、その言葉のどこかに自己犠牲的なものを感じ取ってしまったのです。本人の中で何か強く抑圧しているものが存在するのだろうなあと。

このような自己犠牲感が、ドンドン肥大化していった先に「自己責任論」が待っているのだとも思います。「あいつが困っているのは、自業自得だ」と。

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この点、自分が何か明確な被害を被っているわけでもなく、少しだけ休んだ相手の埋め合わせをする程度だったら、素直に相手(の家族)の幸せを願えばいい。

困ったときには純粋に助け合えばいい。自分だって困ったときは、また他の誰かに助けてもらわないと絶対に生きていけないのだから。

それなのに、なぜすぐにズルいという話になってしまうのでしょうか。

それはきっと、上述したように我慢や苦役に耐えているという感覚が根底にあるからなんだろうなあと思います。

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この点、僕がいつも思い出すのは「アリとキリギリス」の寓話です。

どうしても日本人は勤勉や忍耐を美徳とし、アリのように生きるべきだと考える人が多いです。禁欲的に労働して未来に備えることを過度に賛美してしまう。

結果的に自らの欲望(のようなものに感じてしまう家族や自らの健康など)を優先して、「今を生きる」や「生きること自体を楽しむ」ことは何かけしからんことのように捉えてしまっている。

自分の中に、そんな無意識の価値基準が存在するからこそ、そのものさしに従って、自分自身の素直な欲望も抑え込んでしまい、必死に砂を噛むような努力ばかりを優先してしまうのでしょう。

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でも、その解釈自体がきっと大きな誤りで。

そもそも、そんなふうに努力できる素養や、環境が目の前に存在している時点で非常に恵まれている。

その運が、自分にはあっただけなのだと思います。それ以上でも以下でもない。

世界には「日本に暮らすアリ」になりたくても、なれない人間だっていっぱいいる。そう考えると、結果としていま自分が生きること自体に大きく困っていないのであれば、それだけですでに十分恵まれていると言えるはずなのです。

もし、なにかしらの余剰分が目の前に存在するのであれば、それは困っているひと(たとえばキリギリス)に分け与えてあげたって一向に構わないはずです。

なにも昔の悪代官のように「おまえの食う分まで全て納めろ」と言っているわけではないのですから。

目の前に余っているものがあるにも関わらず、「努力できたのに、努力しなかったやつが悪い。自業自得だ!」というのは本当におかしな考え方だなあと思います。

そして、これこそが「頑張って自分の力で努力し、成功した(と思い込んでいる)ひとの無邪気な傲慢さ」でもあるのだと思います。

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一方で、ここまで書いたことを全てをひっくり返すようなことを書いてしまうけれど、その自己責任論を振りかざすひとたちの「寂しさ」に対しても同じぐらい理解を示してあげたいなあとも思います。

「私の努力だと思いこんでいるものはすべて、ただの運じゃないか!」と言及することは、圧倒的な事実であり、徹底したリアリズムでもあるかもしれないけれど、一方で全然優しくないなとも思ってしまう。

言い換えれば、相手の自己責任論自体はすべて論破できたとしても、相手が積極的に自らの主義主張を変えるための一助にはならない。

「そんなのはわかっているけれど、感情が追いつかないんだ…!」っていう人だって、きっとたくさんいるはずなのです。

もちろん自分の中にも、そんなふうに拗ねてしまう幼い自分は間違いなく存在している。余裕がないときは、その子どもの私がちょくちょく顔を出してきます。

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きっと、誰か自分以外の人間から一言「頑張ったね」と言ってもらえるだけで、その拗ねている幼い自分の感情は報われて、成仏できるのだと思います。

ただ「感謝されたい、尊敬されたい、敬意を得たい」と思っているだけだったりするんですよね。何か大きな代償を要求しているわけでは決してない。

しかも、最初はきっと私の努力が「認知されたい」ぐらいだったのだと思うのです。評価さえ求めていなかったはず。

でも、その感情が世間から無視され続けて、ただひたすらにさらなる努力だけを親や周囲から求められ続けたから、それがこじれにこじれて「自己責任論」まで肥大化することになってしまっただけで。

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日本は、アリ的な行動ができるようになって初めて一人前というような感じで、社会から認められるようになっている。

でも、その時点ですでに十分に偉いし、よく頑張っているなと僕は思います。

頑張るための環境や素養というのは、完全に運であることを各人がしっかりと自覚しつつも、その努力はちゃんとお互いに承認し合っていきたい。

この相矛盾する両面からのアプローチが存在して初めて、この世界から「自己責任論」が静かに瓦解していくような気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているひとたちにとっても、今日のお話が少しでも何かを考えるきっかけとなったら幸いです。