「幸福=成功、不幸=失敗」と同一視するようになってから、ひとは自らの幸福から遠ざかってしまったというのは、至るところで語られているお話です。
本来は幸福と成功、不幸と失敗というのは何の関連性もなかったはずなのです。
幸福とは人それぞれのものであり、人格的、性質的なもので、一方で成功とは一般的なもの、量的に考えられてしまうもの。
この量的なものを、他者との比較のなかで「いかに私が上位数%にいるか」がそのまま「イコール私の幸福」となってしまっているのが現代人の辛さということなのでしょう。
具体的には、収入やフォロワー数、評価のバロメーターなどなど、とにかく数字で他人よりも優位である状態にあるかどうかで判断しようとしてしまう。
当然ですよね、他者と比較するためには、何かしらの数字やものさしを用いないと比較できない。それが加速度的に高まってきたのがここ数十年の社会の変化なのでしょう。
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ゆえに、とにかく他人よりも早く成功にたどり着くための正解(一番生産性の高い方法)が何かを理解し、それを忠実に再現して、数字としてしっかりと結果を出していくことをみんなが目指した。
「考えている暇があったら手を動かせ」と急かされて、市場をハックするという態度が最善だとされてきました。
でもそれは、良し悪しの基準を外部に求めて、市場の判断がいつも正しいと信じて、外部に査定を求めている態度と言い換えられる。
具体的には、バズったからいい考え方だとか、いいねがたくさんついたから素晴らしい写真だといったような態度です。最初にどれだけ自分にとって価値があるものだと感じたとしても、市場が評価しなければ、これは無価値だったのだと断定し、ポイと捨ててしまう。
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思うに、今の人々にとっては「自分にとって本当にいいもの」であっても、「これが良いと言われているから良い」という根拠(理由付け)になってしまっているような気がしてならない。
それはちょうど会津藩の「ならぬものはならぬ」の感覚に近いです。
たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」大抵のひとは自分で考えたことがないかと思います。
「法律で決まっているからダメだ」とか「人を殺して逮捕されたら人生が終了するからダメだ」とか、その本質的な「悪」については考えたことはない。
「良いものは良い」においても、これとまったく同様のことが言えるのではないでしょうか。
「成功」というボールにみんなで一斉に群がり、「失敗」というボールから蜘蛛の子を散らしたように遠ざかるという動作を延々と繰り返しているだけ。なぜそうしているのかと言えば、皆がそうしているからという理由以外にほかならない。
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しかし近年、そのような「成功」の基準から、少しずつ降り始めるひとたちが増えてきているのがコロナ以降の社会の大きな変化だと思います。
なぜなら、一人深く考える時間が増えたことにより、この「成功」のレースに参加しているうちは絶対に満たされないと、少しずつ気づき始めたひとたちが増えてきたからです。
それよりも、私にとっての「幸福」の基準とは何かをしっかりと探求したいと願う。私にとっての本当は「よさ」とは何かを考えつづけて、自分を自分でじかに肯定できるということを目指す態度を大切にし始めている。
この点、哲学者・永井均さんの書籍『これがニーチェだ 』の中に「ニーチェの生み出した新しい評価の視点」が紹介されていて、とても参考になるので少し引用してみたいと思います。
さて、そうだとすると、人間の「よさ」はどうだろう。また、人生のよさはどうだろう。よい人とはどんな人であり、よい人生とはどんな人生なのか。
答えはない。なぜなら、料理やボクサーの場合には、その存在理由、そのあるべきあり方がアプリオリに決まっているから、何がよいかがはじめからわかっているが、人間の場合には、そんなものは決まってはいないからである。そして、多くの人が何をよいと感じるかを調べてみたところで、それがほんとうによいのかどうか、私もまたそれをよいと感じる べき かどうか、は決められない。
それではニーチェは、人間の何か特定の存在理由、あるべきあり方のようなものを、独断的に主張したのであろうか。そうではない。彼は評価の基準を提唱したのではなく、評価の方法に関して、新しい視点を打ち出したのである。それは、直接的な自己評価こそを究極的なものと考えるという視点である。何を評価基準にしようと、それは自由だが、とにかく自分で自分をじかに肯定できるということ、これこそが人間の「よさ」を最終的に決める、というのだ。
自分にとって「よい」とは何かを徹底して考えること。
その正当性の根拠を外部ではなく、自らに内側に求めること。
そして、これは相矛盾するように聞こえるかもしれないけれど、そのためには古今東西、徹底して「よさ」について考えてきた先人たちの基準を理解しようとすること以上に優れた方法はないのだと思います。
そのうえで、自分にとっての「よさ」とは何かを他者との対話を通じて深堀りしていく。(死者との対話も含む)
それ以外に、私にとっての本当の「よさ」とは何かを見つけ出す方法はないのではないのではないでしょうか。
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自分の中で考え抜いていないから、いつも不安になるのです。
私の知らないところに、より素晴らしいものがあるのかもしれないと感じるから、いつまでも他人の基準で評価された「良いもの」を紹介してくれるメディアやSNSを、日夜追い続けさせられてしまうことになるのです。
気づけばそうやって、海外どころか宇宙まで行かされてしまうのが今の世界。
そうやって他人の「良さ」の基準に一生振り回され続けることになる。私が私自身に「よさ」を問い続けるその連綿とした過程のなかにしか「私の幸福」は存在しないのだと僕は思います。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。