11月にも関わらず、東京が夏日のような毎日です。特に、この三連休は本当にあたたかい。

そんな天候のなか、街中を歩いていると「この秋、新しく買いました!」と言わんばかりのおろしたてのニットや、ジャケットを着ているひともいれば、一方で未だに夏物を着ていて、当たりまえのように半袖で歩いているひとたちも少なくありません。

訪日外国人のひとたちは、そこに輪をかけて、半ズボンだったりもします。

で、例年であれば、11月はどれだけ暖かくても半袖の夏物にはもうかなりの違和感がある時期だったはずです。

ただし、ここ数日の東京の異常な暖かさを体感してみると、今年はちょっと秋冬物を頑張って着ているひとのほうが、少し滑稽に見える。(※あくまで個人の主観です)

この変化が、本当におもしろいなあと僕は思います。

今日はこの街なかの人たちの服装から考える、「エビデンス」と「直感」の関係性について少し考えてみたいと思います。一見関係なさそうですが、後半でつながっていきます。

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さて、繰り返しますが、例年なら間違いなくこの時期はもう秋冬物を着ていたほうが適切はずなんですよね。

じゃあ、この例年っていう言い方のその意味とは一体何なのかっていえば、つまりは統計学ということで、今話題の「エビデンス」の話だと僕は思うんです。

つまり、現状はエビデンスだけに従うことのほうが、チグハグな状態にもなっている状態だとも言える。

たとえば、ChatGPTのようなAI対し、今日の11月の日付と、今日の天気予報を入れ込めば、過去の気象情報や、過去のSNS上の投稿など様々な要素を加味しながら、きっと秋っぽい格好が提案されるのだと思います。

でも、もし今日という1日だけにフォーカスし、人間の身体感覚や直感に従えば、たぶん半袖や薄手のシャツぐらいが心地よいことは間違いない。

その身体感覚を大前提にした上で、街ですれ違うひとたちの「人目」や「季節柄」という複雑な要素が加味されて、どこまでそれらの「社会的要因」を意識するかが一人ひとりに問われているわけです。

で、僕は、ここに結構大きな落とし穴があるなあと思っています。

つまり、このときに、「例年」という統計学的な「エビデンス」に沿った格好をすると、自らには不快感があるにも関わらず、それを押し殺して、秋冬者の格好をしてしまうのが現代におけるエビデンス至上主義みたいなところがあるなあと。

その選択というのは、例年からすると圧倒的に正しいがゆえに、圧倒的に間違っているようにも感じられる。

ここが今日、一番強く強調したいポイントです。

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もちろん、これは今日みたいな気温の日に秋冬物を着ていることが間違っていると言いたいわけじゃないですよ。

そこは、くれぐれも誤解しないでください。

そうではなく、あまりにも過去のエビデンスにこだわりすぎると、自らの直感に従えなくなること、その自らの直感の優先順位が下がることに対して、もっと自覚的になるべきだよね、とここでは言いたいのです。

これは、何度もこのブログで繰り返しお伝えしたいのですが、エビデンスは他者と合意をする上でその時に初めて再優先するべき事柄であって、まずは先に個々人の直感ありきのはずなんです。

先日もご紹介したスタジオジブリ・鈴木敏夫さんの言葉を借りると、映画を観たら、子供のように「おもしろかった!」で良いはずなんですよね。

そして、そこに自らの社会的責任や立場が後々加味されて、自然と自らのスタンスや立場が決まっていくはずなのです。

さらにそこから、他者と共に対話をする中で、その作品の普遍性やその作品に対して万人が共通して抱くことができる本質部分を、まさに文字通り本質看取をしていけばいい。

本来はこの順にもかかわらず、エビデンス至上主義になると、その自分の感覚を完全に無視し、最初から客観的に一番正しいエビデンスのみに頼って(従って)、自らの決断が下されてしまうわけです。

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そして、日本の「空気」の正体というのは、実はコレなんだろうなあと思います。

以前、山本七平の『空気の研究』という本を紹介しながら、空気の原型は、臨済感的把握だという話を書いたことがありますが、その臨済間的把握の対象が、今はまさに「エビデンス」になっている。


これは変な言い方に聞こえるかもしれないですが、逆に言えば、どれだけ客観的な正しさによって、僕らが日々自らの直感を無意識のうちに殺してしまっているのか、ということです。

ここにもっともっと自覚的なって考えた方がいい。

それはただ単に、「空気」に流されているだけと同義なのかもしれないのだから。

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この点、たとえば今、AIを必死で使いこなそうとしているひとたちは、まずは自分でつくってみるということさえしなくなってきているはずです。

でも、いくらAIが完璧につくってくれるといったとしても、それだと僕はあまり良くないと思う。

自分が欲しい情報は、まずは自分自身でしっかりとつくってみる。少なくとも頭の中で構成してみるってことは、本当に大事な作業であり、過程だと思います。

AIに実際に聞いてみて、それをつくってもらうのは、そのあとでも決して遅くない。

たとえば、検索においても調べる前にある程度自らの予測を立てて、当て感でもいいから何かしらの予想を立てながらググってみることって、本当に大事な作業であるはずですよね。

その時に最初から知りたい情報だけを検索し、表示された情報を鵜呑するのは、百害あって一利なしのはずです。

そうすると、どんどん権威性の強いエビデンスに流されるようになる。そして、自分の直感力は磨かれないまま、です。

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さらに、政府や信頼できる研究機関が流している情報に、最初から盲目的に従って、権威主義的になっていったりするわけですよね。

でも、そうやってエビデンスを報道してくれる存在だと思ってみんなが頼りにしていた日本の各種マスコミが間違っていることだってあるわけです。

それは、NHKでさえも実はジャニーズの問題の片棒を担いでいたかもしれない状態がいま少しずつ発覚しているような状態であって、エビデンスの供給元が、一体どこまで信頼に足るのかは、もう本当にわからないような状態なわけですよね。

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だからこそ、自分の直感と客観的なものさしのズレ、そこに対して常に自覚的でありたいもの。

言い換えると、最初から客観的な正しさを判断基準だけを拠り所にしないこと。

もし、これからの時代に他者と異なる「個性」のようなものが存在するなら、その差分の部分に宿ることは、間違いないはずなのだから。

最近はずっと同じことを書いているような気がしますが、エビデンスは本当に大事であることは大前提として間違いないのですが、でもそれは、自らの直感を大事にしたあとに、大事にするものだと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。