「もうAIが書いてくれる時代、人間が書く必要はない」と言われることがあります。でも、それは僕にとって真っ赤な嘘だと感じています。
むしろ、AI時代だからこそ、人間が「自分の身体で感じたこと」を、自分の言葉で「情報化」する必要がある。
言い換えると、もう「情報処理」のために人間が書く必要はまったくない。情報処理のための書く作業は、すべてAIに完全に任せればいい。
今日はそんなお話です。
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そもそも、自分自身で何かを「書く」ときって最初からわかっていることを「書く」のではなく、わからないから書くんですよね。
これは過去に何度も言及してきましたが、書きながらだんだんと自分の頭でわかってくる。その過程こそが「書くこと」の核心だと思います。
ところが、AIを使えばこのプロセスをすっ飛ばせる。
それが「生産性が高い」とされる理由でもありますが、でもそれは「書く」という行為で得られる一番の本人にとっての果実みたいなものと、完全にトレードオフなんですよね。
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じゃあ、それは具体的にはどういうことか?
これは以前、『気は優しくて力持ち』という本の中で内田樹さんが、橋本治さんの言葉を引用しながら、書かれていた話がとてもわかりやすい。
そのお話をここでも少しご紹介してみたいと思います。
橋本治さんは本を書くことについてこんなふうに書いています。
「分かってて書くんじゃない。分かんないから書く。体が分かることを欲していて、その体がメンドくさがりの頭に命令するー『分かれ』と。」僕が書くときのスタンスもかなりこれに近いです。
(中略)
体が「こういう感じのことってあるでしょ!」と頭に伝えるんだけれど、わかってるのは「感じ」だけで「言葉」じゃないから、頭はけっこうとんちんかんな回答をする。頭が「え~と、それはこういうことですか?」というふうに変換候補を出してくるのを、体の方が「あ、惜しい。近い!」とか「ぜんぜん方向違い」とか反応して、そのやりとりの中でだんだん言葉がかたちを整えてくる。
最初に文章をゼロから書き出すときって、そんな感じです。
これは、まさに書くことの真髄を僕らに教えてくれているなあと思います。
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さらにここで直結してくるのは、冒頭でもご紹介した「情報化」と「情報処理」の違い。
こちらは、養老孟司さんがさまざまなご著書の中で語られている非常に重要なお話だと思います。
元同僚のくいしんさんが編集しているウェブに公開されているインタビュー記事の中でも、養老さんが同じ話を語られていたので、そちらからご紹介してみようと思います。
”僕は「情報化」という言葉をちょっと違う意味で使っています。僕の言う「情報化」は、五感から入ってきたものを情報に変えて人に伝える、ということです。たとえば自分の目で見たものを、文章として表現することなんかそうですね。
(中略)
一方で、今みなさんがやっているのは「情報処理」なんですよ。すでに情報になったものをどう扱うか、ということをしている。
「情報処理」業になったさきがけは医者の世界ですね。患者じゃなくてカルテを見ている。すると医者は、AIに置き換えられるからいらなくなるんですよ。
子どもにそういうことをやらせる必要はありません。だってどうせ情報処理はAIがやってくれるんだから。一番難しいのは、現物を情報化していくことなんです。”
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たぶん、これを読んでみても、多くのひとが頭には「はてな」が浮かんだはず。
両者の一体何が違うの…?というふうに。
僕も初めてこの話を読んだときはそうでした。全然意味がわからなかった。「おいおい、またこのおじいさん、わけのわからないことを言っているよ…」と真剣に思いました。
でもここには雲泥の差があるんですよね。
それぞれは全く別物だし、ここが理解できていないと、これからのAI時代にはますます致命傷を負うと思ったほうがいいんだろうなあと思います。
本来の人間が書くという作業は、この「情報化」を行う行為。
一方で、AIが行っているのは情報処理だけ。身体がないのだから当然ですよね。誰かがすでに情報化したものを、右から左に流しているだけなわけです。
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ちなみに、このあたりで多くの人が思っているのは「じゃあ、喋るはどうなの?」と思っているはず。
僕は、しゃべることも基本的に情報処理にとどまると考えています。すでに頭でわかっていることを、口から出しているだけですから。
もちろん、喋っているときに生まれてくる「トリッキーな意見、人とは違う意見」というのもあるけれど、それも情報処理を行った結果として「外れ値」を意図的に作り出しているだけなんですよね。
たとえるなら、トークイベントで観客の反応を観ながら、自分が持っている話から、どれをどうやって話せばウケるのかを探っているみたいな感覚に近い。
それはトランプで言えば、カードの内容自体というよりも、カードの切り方の問題であり、そこで新しいカードは生まれてはいない。
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また、喋るという行為は、人間の語学的特性、つまり日本語の構造上そうなっているだけの場合が多い。
それが「真実」であるとは限らないわけです。あくまで言語の中で整合性が取れているというだけ。
逆に言えば、僕らが当たり前のように用いている日本語の特性や構造に完全に引っ張られてしまっているのが話し言葉。
だからたとえば、西田幾多郎は苦肉の策として「絶対矛盾的自己同一」と言い、苫野一徳さんは「真の愛」の定義として「存在意味の合一と絶対分離的尊重の弁証法」と言い、河合隼雄さんは「冷たく抱き寄せ、あたたかく突き放す」とか「何もしないことを全力でする」みたいな変な話を語りだすわけです。
これらは、五感で得た身体知を、無理やり言語に落とし込もうとした痕跡であるはずです。
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つまり、日本語(頭)では意味がわからないし、矛盾だらけなんだけれど、身体(現場・現実・リアル)においては、こちらが正しそう、ということを、なんとか頭にもわからせようと書き言葉に落とし込んでいくことが「書く」という行為。
だから、自己の身体が体験したことを、頭にわかれ!って言うために、書いて書いて書きまくって、結果としてこのような一連の言葉が出てくるのを本来は待たないといけない。
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つまり、情報化というのは、自分の身体、つまり五感を総動員して、そのあたらしいカード(新しい主張)それ自体を自分で作り出すようなイメージです。
そして、身体はいつだって、自分よりも先に世界の「真実」を知っている。自分がこの世界を「生きる」ためにつくるべきカードが何かを知っている。
それを、身体から頭に向かって「わかれ!」って促すのが、書くという行為であり、「情報化」作業です。
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でも一方で、AIの場合は、すでに出来上がったカードを自分に対して配ってくれるだけ。
当然、自分でつくることをしない限り、その配られるカードというのはどんどんコモディティ化していくわけです。平均値に近づく。
そして、他人が情報化してくれた「情報」を、「情報処理」して自分で考えたように錯覚させてくれるだけ。
自分が一生懸命に「情報化」したものを、他人がすでに「情報化」していて、「情報そのもの」をAIが知っている可能性は高いだろうけれど、それでも自分で情報化したほうがいい。
なぜなら、自分でつくったカードなら裏表、なんならその間の隠された部分も知っているはずだからです。
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このあたりは、「恋愛」で考えればすぐにわかるはず。
恋愛の情動は、情報処理で教えられても意味がわかんないし、たとえ意味がわかっても、それは本当の意味で「わかった」とは言わないはず。身体が体験しないといけない。
宇多田ヒカルは「初恋」のなかで、ずっと「その情動」を歌っている。
”うるさいほどに高鳴る胸が 柄にもなく竦む足が 今静かに頬を伝う涙が 私に知らせる これが初恋と”って。
そして、彼女のその「情報化」には嘘がない。
「たしかに自分の身体が体験したそのものだ!」と多くの人が感じるから、彼女の歌にこれだけのひとが共鳴する。
また、坂口安吾はソレを『恋愛論』のなかで、以下のように語ったわけです。
教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは噓の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。
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もちろん恋愛というのは、身体経験を通して、誰もが経験や体験したことがある一丁目一番地だと思うから、ここで例に挙げているだけであって、すべてのジャンルにおいてこれが存在するのだと思います。
この、情報化をサボらない。そして、それは人間の書くという行為にのみ与えられた特権。
AIを使って書いているだけではダメだし、喋っているだけでもダメ。
これは、自分で書かないと、いつまで経っても情報化はできない。
でも、世の中の多くの人は、「情報化」と「情報処理」の区別さえついていない人が大半だと思います。そして、今の世の中の仕事のほとんどは、「情報処理」をするだけで食えてしまう仕事がほとんど。
だからこそ、身体を持たないAIでも、簡単に置き換えられてしまうんですよね。
でもこれからは「情報化」こそが人間のお仕事であって、「情報処理」のほうは養老さんが言うように、すべてAIがやってくれるようになってしまう。子どもたちにそんなことをやらせてはいけない。
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にも関わらず、もうAIが書いてくれるから自分は書かなくていい、と考えて、書くのをやめているひとが今ドンドンと増えてしまっている。
そんなわけないじゃないですか。こんなときこそ書くことを、決してやめちゃいけないんです、本当は。
やめてもいいのは、「情報処理」を行うために行っていた「書く」ことであって、ソレは本当に今すぐにやめたほうがいい。
そんなものはもう半年とか1年のスパンでAIに置き換えられる。というか、もうすでに置き換えられてしまったと過去形で言っても過言ではないはずです。
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繰り返しますが、これからは、自分という身体が五感(ときには「第六感」も含む)を通じて得た知見を、自分の頭にわかれ!と情報化すること。そうやって、他人の頭でもわかるように書くことこそが、人間の役割。
その一連の手作業の「書く」をAIに対して上納をすると、その褒美としてAIが勝手に読み取ってくれて、自分の情報化したものの莫大なアーカイブを理解し、勝手にAIが「情報処理」をしてくれるようになる。
この情報処理作業を人間がやらなくて済むようになったのが、今起きている革新的な変化であり、自分の「情報化」した情報をAIに読み込ませる、ということの真の意味でもあると思います。
なかなかにわかりにくい話をしてしまったかもしれませんが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。