先日もご紹介した、社会学者・大澤真幸さんの新刊『西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』。
この書籍の中で、映画『君たちはどう生きるか』の素晴らしい考察が描かれていた。
今日はその内容をここで少しだけご紹介をしつつ、あの映画に込められていた想いを、自分なりに改めて深堀りしてみたいなあと思います。
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まずは、本書に書かれていた大澤さんの意見を丁寧にご紹介していきたいと思います。
大澤さんが本書中で立てる核心的な問いは「なぜ眞人は大叔父の意志を継がなかったのか?」です。
これは言い換えると「宮﨑駿は、どうしてこのような物語をつくったのか?」にもつながります。
なぜなら、自由で豊かで平和な世界を創造するという使命を主人公が結局引き受けないことになるのであれば、どうして、こんな冒険譚が必要だったのだろうか、となってしまうからだと大澤さんは書いています。
そして、もしこのことをもし逆にポジティヴに捉え返すならば、次のように言うことになる。
それは「この映画では、主人公が、与えられた崇高な任務を引き受けることよりも、それをあえて担否することにより深い意味があるのだ」と。
では、どのように解釈したら、どんな角度から見れば、明らかに善なる目的をもっているように見える役割を引き受けることよりも、それを引き受けないことに、より高い価値がある、ということになるのだろうか?
この問いに答えることができれば、『君たちは』という作品を最も深いレベルで理解したことになるだろうと、大澤さんは語るのです。
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もうこの問いの時点で、本当におもしろいですよね。
先日もご紹介した、この前段で語られていた「セカイ系」の話は、今の若い人たちは、自分たちが「世界から呼びかけられたい」と思っているんだ、というお話でした。
そして、そのためにセカイ系や異世界転生モノ、もしくはありとあらゆるオタク活動や推し活、コミュニティ活動に日々勤しんでいる。
でも、この映画における眞人は、むしろそんな世界からの呼びかけを断固、拒否するのです。
自分のことを好いてくれて、その才能も認めてくれている大叔父(ほぼ神)からの頼みでさえも、あえて断ってしまう。
しかもその理由として、なぜか自分が額につけた傷を指さしながら断るわけですよね。
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では、それは一体なぜなのか。
大澤さんは、眞人のこの自傷行為という行動には明確な「悪意」が潜んでいると言います。
もし自分が怪我をすれば、父が過剰に反応することを知りつつ、彼を巻き込み、なおかつ同級生を庇って“善人”として振る舞う。
これは、他人を操るための嘘であり、計算であり、その根底には自己正当化の欲望が存在している。つまり、眞人は自分の中にある「悪意」を強く自覚しながら、この行動に出ていたわけですよね。
そして、その傷跡は「悪意のしるし」として、彼の物語全体を貫いていく象徴になるのだと大澤さんは語ります。
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では、今度は、眞人が異界で出会った“大叔父”とは、そもそも何者だったのか。
さらには、その大叔父が建てたあの不思議な「塔」とは一体何だったのか、について大澤さんの考えをご紹介していきたいと思います。
大澤さんによれば、大叔父は明治時代の終わり頃、つまり日清戦争から日露戦争の時代に活躍していた、いわば「明治の良質な知識人」を象徴する存在だと言います。
そして、あの塔は、そのころの海外から突如降ってきた「西洋文明」の理想を受け入れ、それに基づいた新しい秩序を構築しようとした日本近代の象徴だと読み解かれていました。
そして、そのような塔は、巨大な積み木のような石で構成されており、バランスが崩れればすぐに倒れてしまう。これは、日本が明治以降に追い求めてきた、欧米列強と肩を並べるための文化的・経済的・軍事的な努力の象徴そのもの。
つまり、大叔父の仕事を引き継ぎ、あの塔の継承をするということは、単に物理的な「イエ」の遺産を引き継ぐことだけではなく、戦前の日本が築き上げた価値体系そのものを、戦後の子どもたちが引き継ぐか否か、という問いにあたるのだと。
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で、ここで前作『風立ちぬ』との関連性なんかも語られます。
『風立ちぬ』と関連づけると『君たちは』で、眞人が大伯父の申し出を拒否した理由もよりクリアになるのですが、そこはぜひとも各人で本書を実際に読んでみて欲しいです。
ここは文字数の関係もあるので、先を急ぎます。
大澤さんは、大伯父に代表される戦前の日本人が、現在の「われわれ」の繁栄を願い、そのために努力をし、自らを犠牲にしてきたことを「われわれ」はわかっている。
それゆえ、戦後日本人の代表としての眞人としても、できることなら、大伯父の願いをかなえ、大伯父の仕事を継承したい。しかしそういうわけにはいかない。それは許されないのだ、と語ります。
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なぜなら、自分には「悪意」があるから、なんです。
ここであの有名な、伊丹万作のエッセイの話につながっていきます。
このブログの中でも過去に何度かご紹介したことがあります。
戦後日本人は、自分たちの戦争を推進したイデオロギー、つまり戦争を正当化していた物語がまちがっていたと判明したときに、絶対にとってはならなかったのは「私たちはもともと善人だった」というスタンスだった。にも関わらず、戦後日本人の多くは自分たちを「善意の被害者」として位置づけてしまった。
「私たちは、騙されていたんだ」と。そして手のひらをくるっと返すようにして、アメリカの民主主義と資本主義を迎合した。
で、伊丹は同じエッセイの中で、こう警告するわけですよね。「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」と。
「だまされていた」ということで免罪されるならば、人はいくらでも安易にさまざまな思想や理念にコミットし、そして何度も「だまされるだろう」というのが、あのエッセイの中での伊丹万作の主な主張です。
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本来、敗戦後に日本人がまずとるべきだったのは「私は誤っていたし、今もまだ誤っている者と同じ水準にいる」という立場であると、大澤さんは語ります。
つまり戦後の日本人は「私は悪人である」「私は悪によって汚染されている」というところから、まずは出発すべきだった。
そして、あの映画の中で宮崎駿は、眞人をそのような(あるべきだった)出発点に立たせているのだ、というのです。
僕はこの部分を読んだときに本当に衝撃が走りました。膝から崩れ落ちそうになった。
まさに本当にその通りなんだろうなあと感じたからです。
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そして、大澤さんは、眞人は大伯父を拒否するときに、自分には悪意がある、ということを理由にしたことを思い起こして欲しいと語ります。
「悪意のしるし」が額の傷であって、それは同級生に罪を負わせるために、眞人が、自分で意図的に自分の額につけた傷である。
この自傷行為といのは、日本の侵略戦争の愚劣さを最も強烈に刻みつけている工作活動への暗示を含んでいる。言い換えれば、自作自演で自分を攻撃しておきながら、それを敵からの攻撃だと主張し、戦争を始める口実にした「柳条湖事件」のメタファーだと言うんですよね。
だからもし、あのシーンで大叔父の仕事を引き継いでしまっていたら、眞人は、最初から「純粋に善意だけの人」として、戦後の世界の構築を始めることになってしまう。
でも、彼はそれをしなかった。
自分から、額の傷を指さし、悪意に汚染されている自分は、その石に触れることができないと突き返したわけです。
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もちろん「悪」に染まった者から出発するということは、そこにとどまるということではないということは、くれぐれも誤解しないで欲しいところです。
そうじゃなくて、自らのうちに「悪意」があることを認めた上で、その「悪意」を克服すること、それ自体をこの映画の中では目指されているのであると、大澤さんは語ります。
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これは本当に素晴らしい考察だなあと思いました。
この映画を僕は公開初日に観に行き、その後今日まで数え切れないくらいに多くの考察を読んだり観たりしてきましたが、こんなにも納得感のある考察を読んだのは、これが初めてです。
もちろん、これは大澤さんの考察のほんの一部分であり、本書の中ではさきほどご紹介した『風立ちぬ』や漫画版『風の谷のナウシカ』のラストのシーンとの比較なんかもあり、それがより一層、この主張を裏付けてくれるものとなっています。
ぜひ本書を実際に手にとってみて欲しい。
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これは戦前と戦後の話のように思えるけれども、幕末の開国からの始まった西洋化に始まり、太平洋戦争を経て、そしてまさに今は、西洋文明の成れの果てという状態です。
だとしたら、単純に戦前からの日本を引き継いで、ただただ被害者ぶっているだけでなく、自分たちの「悪意」からもう一度出発しなおし、戦前の死者たちと同じ目線に立って「あれは明確な悪意だった」という反省から立ち上がり、自分たちの「善意」をこれから立ちあげていかないといけない。
ここの問いと向き合わない限り、次の世代の新しい道は拓かれない。
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でも、じゃあ果たして具体的にはどうすればいいのでしょうか。
大澤さんも、この映画には大事なことが一切描かれていないと語ります。
以下で再び本書から引用してみたいと思います。
が、しかし、そうだとするとこのアニメは、最も大事なこと、描くべきことを描いていない、ということにもなる。肝心なことは、「この後」である。自分は「悪」に汚染されているとして、大伯父の要請を拒否した。それはよい。が、ほんとうのドラマ、ほんとうの苦闘は、この後にある。どうやって、「悪」から出発して、「善」を立ち上げるのか。自らの中に残る「悪意」をどのようにして克服し、「善」の立場を獲得するのか。そこまで行ったとき、初めて眞人は、大伯父が担っていた立場を引き受けることができる。
そう、宮崎駿は何一つこの道筋を描かなかった。
あの映画のラストも、荷物を背負って部屋から出ていくシーンで急に終わります。そのあとは、米津玄師のあの曲が流れるだけ。
なんて無責任な…と思うかもしれないけれど、同時に僕は、なんて誠実な…とも思います。
そしてだからこそ、この映画は「君たちはどう生きるか」というタイトルなんだろうなと思ったのです。
ここからは次の時代を生きる君たちが考えることであり、この考察を踏まえると、映画全般がまさに「君たちはどう生きるか」という問いそのものですからね。
言い換えれば、戦後日本、いや、幕末開国以降の日本として、これから君たちは日本人としてどう生きるか、その問いを提示するためにこそ描かれた作品でもあるということです。
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あの映画の公開直後、世間では宮崎駿の走馬灯、総決算のような作品だと言われていました。
そして作中に描かれているありとあらゆるものを指さしながら、あれは過去の作品の何々のオマージュで、この登場人物は誰々をモデルにしているなどの議論も盛んに行われた。
でも、この大澤さんの考察にふれると、大切なところはそこじゃないんだ、ということがはっきりとわかるかと思います。
宮崎駿さんご自身が、ものすごく前向きに考えた結果としての、振り返る必要があったからこそ振り返って描かれてた。「あちら側」にいって、そして、自分がつけた悪意からやり直す必要があったからこそ、描かれた作品です。
そして、スタート地点がまさにここにあるという目印なんだと思います。それを解釈したうえで、自発的にバトンをつないでいくことに、深い意味があるんだろうなあと思います。
この考察が本当に正しいかどうかは宮崎駿御本人にしかわからないことですが、個人的にはものすごくガツンと頭を殴られたような気持ちになりました。
そして、だからこそ真剣に考えていきたい問いだなあとも改めて感じました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。