この前、美容師のらふる・中村さんともそんな話になったんだけど、30代も半ばに入ると、お金も仕事の余裕も出てきて、自分がずっとやりたかったことをやるようになる、という話はよく聞く話かと思います。

それが仕事方面に向かうと、自分が作り出したかった世界観の実現に向けて、より一層ドライブがかかっていくし、これが無意識の抑圧の開放のほうに向かってしまうと、夜の世界とかギャンブルの世界にのめり込むことにもつながっていくなあと思います。

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で、自分は一体なんだろうなと思ったら、本当に何もやってないなと思ったんですよね。

たとえば、昨年から定住し始めた家も1年経っても、明日引っ越せるぐらいに必要最低限でガラガラだし、自らの城(オフィス)もつくらないし、何か車とか時計とか物を集めたりなんかもしていない。

家族もつくらないし、人との交友関係も本当に必要最低限にとどめています。

「一体これはどういうことなんだ…?」と考えると、最終的にたどり着いた結論は、「何もやらない」を、全力でやっているんだなと思ったんですよね。

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意味がわからない表現だけど、それが自分の中では一番しっくりくる表現だなあと。

そんな中でも、やらずにはいられないこと、に目を向けている感じもする。

喩えるなら、小さいころから憧れていたことの百花繚乱じゃなくて、一輪挿しをずっとつくってみたかったんだ、みたいなイメージにも近いです。

そして、考えようによっては、これが一番贅沢な気もしています。

一方で、こういう考え方が、世の中において嫌われるのもなんとなくわかります。自分たちの欲望を否定されてしまったような感じにもなりますからね。

でも僕は、決して他人の欲望を否定しているわけではなく、自分にとってはこれが「欲望」だったという気づきなんです。

今日はこのたりが主題になってきます。

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これをわかりやすく「清貧の思想」と呼ぶひともいるはずです。

そして「あっ、なるほど。そっち側にいったのね」と理解されがち。

しかし、僕はこの解釈においては、多少疑問を感じてしまうんですよね。そうとも言えるのかもしれないけれど、そうでもない部分も大いにある。

この点、そもそも「清貧の思想」というのは、物質的に恵まれ始めた高度経済成長時代から、バブルの絶頂ぐらいまでの議論だったのではないでしょうか。

裕福で「何でもある」人々に対する、ある種のルサンチマンとして機能していた考え方でもあるように思う。

最近ご紹介した話で言えば、建築家・隈研吾さんのニューリッチへの批判に対しての、オールドリッチからの「品が悪い」という批判のようなイメージです。

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しかし、現代社会は、もはやそういった状況でもないように感じています。

むしろ、ありとあらゆるもの(創作物やコンテンツなんかも含めて)欲望を満たすものが際限なく、しかも安価で溢れ返っていて、それが完全に常態化しているような時代です。

このような状況下においては、逆に「ない」世界を素直に欲望することは、十分にありえるのではないかと思うんですよね。

喩えるなら、騒々しい環境に常に晒されているひとが、自然と静寂を求めるようなものです。

しかし、世間一般が求めるものは、往々にしてより刺激的で騒々しいものの方なわけです。だからこそ、自分の欲望も常にそちら側のベクトルにあるはずだと、無意識に思い込んでしまう。

これはややこしい話で申し訳ないと思いつつも、僕はこの考え方がどこか違うのではないか、と思っているという話なんです。

世の中の「ある」や「満たされる」や「満足する」という欲望のベクトルが、依然として物質的な豊かさや、それに類する刺激の方向に向いているからといって、そのベクトルの中にあるものが「人間の真の欲望だ」と決めつける理由にはならないよなと思います。

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この考え方は、たとえば「食」の分野なんかでより顕著に現れる気がしています。

僕が「質素な食事に満足しています」という話をすると、多くの人は「あー、はいはい、清貧の思想を実践しているんですね」とか「健康に気を遣っているのですね」と解釈する。

あたかも、何かそれが理想的な生き方を一生懸命体現するために、何か自分の欲望を過度に制限しているかのように判断してくるわけです。

裏には、本当の欲望があるのにもかかわらず、それに抗うことが理想だと思って、頑張って歯を食いしばってそれを一生懸命実践しているひとですよね、と言わんばかりに。

でも、僕が言いたいのは、そうじゃないんですよね。

これが真の欲望だろうって言いたいんです。言い方を変えると、「食べない」ということを欲望のままにやりたかったのです。

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しかし、多くの人は食べることの欲望は、常に「食べる」の方向、そのベクトルの中にあると思い込んでいる。

だから、たとえば若い頃のように量を食べなくなったとしても、「上質なものを少しだけ食べる」とか、そっちに方向に真の欲望があると信じ込んでいる。

まさか、「食べない」方向に自己の欲望があるなんて考えもしていない様子に僕には見える。

でも、これだけの飽食の時代において「食べない」ほうに欲望があるというのは、何も間違ったことではないし、不思議なことでもないよなあと、個人的には思っています。

言い換えると、「食べる」というノイジーな状況に対して、思いっきり、目一杯、全力で羽目を外して、「食べない」という選択はあり得ると思うのです。

少なくとも僕はそのような感覚として「贅沢をしない」ということを実践しているなあと思っています。

日々の中で贅沢しないことが、欲望を思う存分開放している感覚になれている状態です。

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で、唐突なんですが、あのソクラテスの「不知の自覚」なんかもきっとそういうことだったと僕は思うんですよね。

もちろん、これはあくまで僕の仮説であり、勝手な解釈ではあるのですが。

最近読んでいたNHK出版から出ている『哲学史入門』という本の中でも、ソクラテスの話が語られてあって、不知の自覚の解説も丁寧に書かれてあったのですが、僕はそれを読みながら「あー、これだよな」と思ったんです。

ソクラテスは、自分が「知らない」と思うことを確認し続けていくことをあの有名な産婆術を通して行っていたわけですが、それは知的好奇心を全開に広げた結果としての態度だったのではないか。

つまり「不知の自覚」という態度が、一番自らの知的好奇心が満たされると、ソクラテスは思ったのだと思うのですよね。

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また、さらにおもしろいのは、当時のそんなソクラテスは圧倒的なマイノリティ側でもあったというお話です。

現代の歴史認識からすると、とても意外な話に聴こえますが、当時の世の中はソフィストたちの詭弁のほうが百花繚乱で、その詭弁を用いて何か自己の欲望を達成することが、理想的なことだとされていたようです。

だからみんな、ソクラテスのところなんかに行くよりも、高い授業料を払ってでも、ソフィストに習いに行ったほうが得だと考えられていたんだ、と。

ギリシア哲学っていうと、どうしてもその頂点にソクラテス、プラトン、アリステレスが君臨していたように見えてしまうけれど、実際には彼らは異端のマイノリティだったんですよと、本書の中では語られてありました。

現代でも、そのようにして詭弁を用いて注目やお金を集めては、スクール事業をやっているひとたちは、あとを絶たないですよね。何千年と経過していても、人間がやることは大して変わらないということなんだろうなと。

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より多くを知っていることよりも、ただ「知らない」を自覚する。

そのほうが「贅沢」だと思ったはずで、その気持ちみたいなものはとてもよく分かる。

他人からは、そんな姿はただのルサンチマンだとかなんとか蔑まれようとも、自分にとっての欲望とは何かを考えることって、本当に重要だよなあと思います。

ときに、それは世間とは真逆のベクトルに進むことになるかもしれない。

でもその方向に何か自分にとって大切なものがあると感じたら、ひとり群れからは離れて、素直に進む勇気を持つことは本当に大事なことだと思います。

さもないと、他人に「ルサンチマンだ!」と指摘されるのが怖くて、他人の欲望を欲望し続けて、ひたすら群衆の後を追わされることになってしまうから。

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自分にとって、本当の意味で望むものを実現することほうが、結果的には自分にとって「よい」人生が待っていると思います。

それが先日もご紹介したような心理学者・河合隼雄さんの「トポスと私」の概念なんかにもきっとつながっていく。

「やらない」をずっとやりたかったんだと思うと、なんだか個人的にはものすごく腑に落ちたのでこのブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。