今朝、小倉ヒラクさんがTwitterに投稿していた以下のツイートがなんだかとても印象的でした。


これは本当にそう思う。

飲食店だけに限らず、仕事やお客さんを選べる立場にあるひとたちが始めるビジネスには、同様の傾向があって、この流れはもう不可逆な気がしています。

そして、この傾向は、これから更に加速していきそうだなと。

だけれども、それが社会全体にとって本当に良いことなのかは、よくわからない。

本当にわからないから判断保留という状態なんだけれども、大半の人々がそう思っているからこそ、余計にこの流れが加速しているような気もしています。

結果、一度は行き着くところまで行き着くしかなさそうです。

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一方で、同じタイミングで、まったく異なる文脈の三宅香帆さんのツイートを読みました。


こちらも本当にそう思います。

現代において、自分と異なる意見を持つ人たちと丁寧に対話できる空間を持つことの価値って、まさにここにあるよなあと感じてます。

Wasei Salonに参加してくださっているみなさんであれば、この三宅さんの感覚を、日々の読書会や対話会のイベントの中で、深く身体感覚を通して実感してくださっていると思います。

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で、今日の本題はここからで、自分が今、このWasei Salonという空間を通して何をしているかと言えば、このヒラクさんの話と三宅さんの話の両方を同時に行っているなと思ったんです。

ひとつは、敬意と配慮と親切心、そして礼儀が大切だと共感し理解してくれているひとたちに、入ってきてもらうような原則許可制ではあるけれど、一応審査性のオンラインコミュニティにしている。

入るまでの心理的ハードルは、たぶんそれなりに高いはず。

一方で、その中でやっていることは、自分とは異なる他者の意見をお互いに尊重すること。自分と異なる意見を対話を通じて理解し合おうと努めること。

そして、腹落ちしない感覚も含めて対話の価値を味わい続けること。

そのなんとも言えない”苦み”みたいなものも同時に大切にし、三宅さんの言葉を借りると、SNSの「共感orスルーor批判」の三択から脱却するための方法を模索している感じです。

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きっと、何よりも「逸脱」が怖いんだと思うんですよね。

今を生きる大多数の人々が、その逸脱の手に負えない「恐怖」に怯えている気がしています。

もしくは、そのような逸脱が起きることを理解しているから、最初からめんどくさがってしまっているのが、まさに今だなあと。

飲食店で嫌な客が入ってくること自体を面倒くさがるというような。

現代は、わざわざそんなリスクを取りに行く必要がない。ビジネス的にもなんのメリットもない。

その合理的な判断はとてもよく理解できるし、ゆえに僕自身も面接制オンラインコミュニティを運営しているわけで。

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でもやっぱりそれだけじゃいけないと思うのです。だから、擬似セレモニー空間をつくることって大事だなあと思っていて。

それはどちらかと言えば「セレモニー空間」を抜け出すために、なんですよね。

これは先日ご紹介した、村上春樹さんの「結婚式工場」の話にもつながる話としての「セレモニー空間」という言葉を用いています。

言い換えると、「適度にして把握可能」な意見対立がある対話空間の重要性です。

今日のメインの主張もまさにこのあたりにある。

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村上春樹さんとしては、結婚式場自体が「適度にして把握可能」な優しさや感動を生み出すビジネスになっていて、それがどうなんだ?と1987年に出版された本で疑問を呈していたわけです。


そしてそのような違和感というのは、現代ではかなり一般的になりました。

そのため、オルタナティブな結婚式の提案も増えたし、それを実行する人々も、とても増えた。気心知れた友人たちだけで行おうとする小さな会も、本当に増えましたよね。

でもそのなかで、ものすごく形式的な結婚式に久しぶりに参加してみると「あれ?」って思うはずなです。

退屈だとバカにしていたけれど、素直に泣ける部分もあったりして、意外と家族って悪くないじゃん、みたいな。

だから、その昔ながらのセレモニー空間が正解だという話をしたいわけではなくて、そうやって絶対に逸脱しないという予定調和の空間だからこそ、何かを本質的に見直すこともあるなと思っていて。

まったく年齢も価値観も異なる人間同士が集まれる空間として、あの招待制の結婚式場という空間は、地味に今は結構稀有な空間になっている。

そうすれば、その体験が再びリアルにも漏れ出すこともあると思うんですよね。

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つまり、気心知れた人々だけが集まる空間だけでもなく、一方でTwitterのような罵詈雑言が飛び交う空間でもなく、気心知れつつも、一定の節度がありながら、極端な逸脱が起こらない中での意見対立がある心地よい対話が継続する空間が今は大事なのではないかと。

というのも、だってもう共感ベースのコミュニケーションみたいなものって大体やりきったと思いませんか。

あまりにも世の中が有象無象で、罵詈雑言飛び交っているからと言って、ウチにこもってみた結果、確かにその快適さは享受できたけれど、とはいえその空間内における言葉にならない退屈さみたいなものも、もうここ3〜4年ぐらいで多く人が実感しているはず。

とはいえ、じゃあオープンの世界で多様性だなんだかんだと言い始めると、すぐにまた衝突し対立する、分断する、石が飛んでくる。

その中でも、どうやったら異なる意見の人々と意見とまともに対話することができるのか、そんな擬似同期体験を感じられる場こそが、今は大事だと思うんです。

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僕はたぶん、みなさんがまったく気づいていない部分で、それをかなり意識的に構築しようと努力しています。

まだまだ、道半ばであることは重々承知なんですが、できる限り、居心地良く、かつ異質な意見と出会える”苦み”もある場にしていきたいと思っている。

もちろん、全然そんなことできていないとお叱りを受けるかも知れないけれど、でも、この空間内でそれを味わえたら、このサロンの中の活動以外の場においても、少しずつ、似たような体験を大切にして、相手の話をまずは聴いてから、「対話」に踏み出すことも可能となってくると思うのです。

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そして、なにより、それが僕らが本当に心から渇望していることであり、飢えていることのひとつだと思うからです。

好きな人たちとだけで集い、持つものと持たざるものに分かれて階層化して、そこで訪れる心の安らぎみたいなものは大体はもうわかったはず。

「選ばれた側にいる私」の嬉しさや「◯◯をしている私」という優越感、その正体みたいなものが大体がわかったなら、次に進まなきゃ。それこそがノブレス・オブリージュのあり方のひとつだと、僕は思います。

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そう考えてくると、改めて過去にこのブログでも何度かご紹介してきた、渡辺京二が大事にしていたという吉本隆明の言葉を思い出します。

「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極めその頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそどんな種類の<知>にとっても最後の課題である」



これは本当に凄まじい言葉だなと思います。

頂きに到着できたなら、おめでとう。それは素晴らしいことです。なにひとつ間違っていないし、いつまでもそこにとどまる権利もある。そしてそのあり方は全く否定しない。

実際にその頂きのうえでクローズドの場を運営したり、飲食店をやったり、招待制の何かしらのVIPしか集まれない場を行って、何一つストレスが無いという状態のひともいるはずで。

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ただ、いつまでも、その頂きに安住していても良いのか。

ブッダがもう一度人里に戻ったように、本当にやるべきことがあるんじゃないか。

しかもそれは、何かリベラル的な「人権擁護」的な観点ではなくて、もっと地に足のついたというか、もう一度<非知>にまみれてみる勇気って必要なんじゃないか。

余談ですが、最近知って驚いたのはリベラルという言葉ができた背景なんです。

NHK出版から出ている『哲学史入門』書いてあった話だと思うのですが「リベラル」という名称は、古代ローマ社会では奴隷に対して、市民を「自由人」と呼んだことに、由来する歴史的用語なのだそうです。

つまり、やっぱりリベラルってどこかで「奴隷」や蔑む対象を要求する。間違いなく、そのような構造的な宿命にあると思う。

つまり、リベラルだけで集まれる場を欲する。相当意識をしていないとすぐにそんな「リベラルの詰め合わせ」状態になる。

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それは仕方がないし、そのような場ももちろん大事だと思います。

そこだからこそ、考えられことも間違いなくあるから。でも何かが足りない、何かが違うと感じる部分もきっと忘れちゃいけないはずで。

自分にとっての不快を排除したいと思って、そうやって排除すればするほど、実は不快は世の中に増していく。

これまでは気にならなかったものまでもが、不快になってしまうから。以前までは、何も気にせず許せたものが許せなくなる。

それは結局、自分たちで自分たちの首を締めることになる。歴史を振り返れば、それは火を見るよりも明らかです。

だとすれば、どうやったらその不快を改めて受け入れ直していくことができるのか。

そのための道筋や方法論を、真剣に考える必要があるんじゃないかと思っていて、それが今日語ってきた結論でもあります。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。