先日、仲の良い地元の友人から「AI、何使ってんの?」と聞かれて、「ChatGPTのpro版」と答えたら「3万円払ってんだ!」とだいぶ引かれました。

お互いに腹を割って話せるほど仲が良いと、こういう感想も正直に伝えてくるから本当に嬉しいし、ありがたいなあと思います。

でも、もはや「ディープリサーチ」のない生活なんてまったく考えられないですし、何か知りたいことがあったときに、ゼロから自分でググるなんてもう一生やりたくないなと思ってしまいます。

それぐらい「ディープリサーチ」機能は革命的。

でも一方で、図書館には行きたい。図書館の中では能動的に、彷徨いたいなあとも思います。

このように「ディープリサーチ」が生まれてから、良くも悪くも「調べ物」ということへの意味合いが全く変わってしまったなあと思います。

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で、この揺り戻しで、これからまた「リアルな探索」が来るんだろうなあと漠然と思っています。

これほどまでに調べる行為がカンタンになってくると、日々AIを全面的に活用しつつも、ある種の身体的な感覚として、知識や物語に触れたい欲求がまた再燃してくるはず。

具体的には、空間の中で時間を忘れて読みふけっていたという感覚や記憶への揺り戻しがこの数年で来そうだなあと。

じゃあそれは、行政が運営する図書館的なものがその役割を担うのかと言えば、きっと図書館ではなく、従来で言えば「ブックオフ」的なものなんだろうなあと。

今日の本題は、このあたりからになります。

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じゃあ、どうしてそんなふうに思うのか?

この点、最近すごくおもしろいなと思っているのは、いま35歳ぐらいまでの平成世代で活躍している文化系のひとたちの話を聞いていると「ブックオフ」の話題が何度も繰り返し語られていて、とても驚かされます。

最近聴いた「文化系トークラジオ Life」の「いま、カルチャーに出会う場所はどこ?」という回でも、平成生まれの若手論客の方々がブックオフの話を熱く語られていた。

あとこれは何の番組か忘れましたが、三宅香帆さんも以前、熱っぽく「ブックオフ」の話をしていたように思います。

また、世代はちょっと上ですが、宇野常寛さんも『庭の話』の中でも、ブックオフの話が書かれてありました。

他にも、最近シラスで観た『チ。』や『ようこそFACTへ』の作者でもある漫画家の魚豊さんの動画の中でも、「ブックオフ」の話が熱く語られていました。

ひと昔前だったら「図書館に通っていました」と言そうな人たちが、ことごとく全員「あの黄色い看板の下で育ちました」というような話をしているのが、なんだか非常に興味深いことだなあと。

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で、もちろん僕も昭和ラストの63年生まれだから、その感覚はとてもよくわかる。

同時代を体験していて、ちょうど僕が小学生ぐらいのころから僕の地元・函館にも一気にブックオフが増え始めました。

僕は当時はブックオフに行っても、マンガだけしか追っていなかったけれど、確かにあの空間には「別世」があったなあと思います。

スラムダンクもドラゴンボールもワンピースもHUNTER×HUNTERも、ブックオフがなければ1巻から触れられなかった文化。

そこには魅惑的な物語がたくさん揃っていました。あの黄色い看板をくぐって、煌々と照らされている蛍光灯の下には、間違いなく日常とは異なる世界としてそこに存在していた。

子どもはお小遣いも少ないから、ベストセラーのマンガが状態さえこだわらなければ100円で買えたことは本当にありがたかった。

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で、平成生まれのひとたちもブックオフ育ちであることを理解して生きてきているから、ちょっと冷めてる部分もあるなと思うんですよね。

いい意味でも「文化文化」しすぎていないというか、どこかで冷静に資本主義を受け入れている感じが、今の平成世代の文化人枠の方々の特徴だなあと思います。

建前としては、お行儀よく「自然光できれいに照らされている図書館で育った」と言いたいけれど、本音や実態としてはあの「ブックオフの煌々とした蛍光灯の下で育った」世代だから、なのでしょうね。

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このように、資本主義の装置が文化を生み出す土壌をつくっているのが、僕としてはなんだかとてもおもしろいなあと思います。

「親がなくとも子は育つ」みたいな話にも思える。

昭和の全集ブームや円本ブームによって、それをインテリアのように買い漁る親たちの子どもたちの中に、自然と本を読む世代が育った、みたいなあの話にもなんだかとてもよく似ている。

「文化の土壌をつくろう!」と思って大人たちが意図的に仕掛けたり、つくったりしたものじゃないもののほうが、実は文化をつくる可能性がある。

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で、僕は、日本の日本らしさって本来はこういうところにあるなと思います。

何か文化をつくろうとして、その結果として出来上がるものじゃないもののほうが、実は日本の文化を構築していたりもする。

資本主義の構造によって、勝手に生まれてきた歪みみたいなところから、文化の萌芽が育まれていたりするわけです。

こうやって、インテリや専門家の誰もが、まったく相手にもしていないようなところから、次の文化が生まれてくるのが、日本の特殊性だなあと思います。ある種のストリートカルチャーでもある。

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ただ、この先の未来に、これ以上「空間としてのブックオフ」は世の中には増えていかないだろうなあとも感じます。

今のビジネスモデルのままだと衰退していくだけでしょうから。なぜなら価格差みたいなものがもう存在しないですし、企業単位のせどりもほとんど通用しないわけですから。

いまは、個人がAmazonやメルカリで本を出品する時代。全体的に、ものすごく滑らかになってしまっています。

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だからこそ、きっと次は、その滑らかさを今度は逆手に取って、単純なリユースの書店ではなく、「トークン」を利用した新たな仕組みなんかも出てくるのでしょうね。

例えば、過去に何度かご紹介している『滑らかな社会とその敵』の著者・鈴木健さんが提唱した「PICSY」というアイディアがある。

PICSYは、個人が自身の将来価値をトークン化し、初期段階で周囲がそのトークンを持つことで、将来的なメリットを共有するという仕組みです。

まだ無名で何者でもない若い世代の可能性に対して、企業が早い段階から投資(トークンを持つ)を行うことで、彼らが将来成功した際の恩恵を企業が享受できるというような可能性だって生まれてくる。

地方の文化的素養がある子どもたちが何かしらの将来活躍すれば、そのまま企業にメリットがあるというような形です。

だって、もし今ブックオフで育ったという平成世代の方たちが、そのままトークンをブックオフで古本と交換していた場合、既にえげつない利益をブックオフに生んでいるはずですからね。

そして、これから彼らの生涯年収で考えれば、ここからもっともっと複利で増えていくはずです。

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「もし、YouTuberとして売れる前のヒカキンのトークンを持っていたら…」という話もまさにそうなんだけれど、

ソレ以上に、その逆で、地方の子どもたちに文化的空間を贈与して、代わりにまだ何者でもない子どもたちの、何の価値もないトークンを持たせてもらえる企業や個人のほうが、最終的には勝つ可能性がある世界線になるんだろうなあと。

たぶん、それも10年から20年単位の話で、本当に一瞬で子どもたちは大人に成長してしまうわけですからね。

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今日の話をまとめると、まずAIが浸透する世界には、別世としての空間がまた「リアルの探索」をできる空間になっていくはず。

ブックオフが平成世代にとって予期せぬ「別世」として機能したように、資本主義の余白から新たな文化が生まれてくる可能性がありえるだろうなあと思います。

で、それは意外と図書館でもなく蔦屋書店のような場所でもなく、古本的な物質としての何かと、トークンみたいなものの組み合わせ、資本主義どっぷりなんだけれど、新しい文化のカタチみたいなものを体現した空間が日本各地に誕生するんじゃないのかなあと思います。

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とはいえ、その前にまずはここから、ネットにどっぷりと浸かった「スマホネイティブ世代」が先に世に出てくるだろうから、これからはそっちが主流になるのは間違いないと思います。

でも、そこからさらに10年ぐらいが経過して、AIネイティブ世代が出てきてときには、今日のような可能性も十分にありえるだろうなあと。

そういう時代にはおいては、「コテンラジオ」の中でも語られていたような「やなせたかし」や「アンパンマン」的な、広く子どもたちに平等に行き渡らせる贈与的行為が、結果的に広く経済的な恩恵として鶴の恩返し的に得られる社会になるんだろうなあと思います。

この年齢になってくると、本当に10〜20年先なんて、あっという間に思えてくる。なんとも楽しみな時代です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。