現代は、他者への「おせっかい」が非常にむずかしいなと強く思います。
これが今の時代の特殊性であって、真剣に考えたいことのひとつだなあと。
先日書いた「正論」の話なんかも、まさにそう。
他者に対してわかって欲しい、本気で伝えたい「正論」なんて、まさにおせっかいの代表格ですよね。
で、そんな正論は、ちゃんと宛先を書いて、相手に直接伝えれば伝えるほど、それは相手からは遠ざけられるものになる。
というか「遠ざけてもいいもの」になってしまっているのが現代のむずかしさ、だと思います。
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多様性という言葉が都合よく用いられていて、良くも悪くも、宛先を書いた瞬間にキャンセルできる対象となってきた。
相手への不快感をそのまま「抑圧」と読み替えても許される、その感覚のほうが優先される世界がまさに今なわけです。
先日ご紹介した「上司が異性の部下に対してバスタオルを贈ったらパワハラと認定された」みたいな話にもダイレクトにつながります。
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とても変な話に聞こえるかもしれないけれど、現代は「正論」や「明確な宛先があるメッセージ」がかえって敬遠されやすくなっていて、敬遠する言い訳も同時に存在してしまっている。
つまり、「良かれと思って宛名がある状態で送られたメッセージ」ほど、かえって「相手が拒否できる対象」になりやすいということであり、多様性を尊重する時代だからこそ耳をふさいでもいいものとして、当たり前のように遠ざけられてしまう、という逆説が生じていることです。
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だからこそ、今の世の中に構造的に「宛先が意図的に書かれていない手紙」が圧倒的に増えてきているなあと思います。
当然ですよね、宛名を書いた瞬間に相手からキャンセルされる対象になりえてしまうわけですから。
本人に届けばいいなと願いながら、ネットの海に流すしかない。
でもこれはチャンスでもあって、いい話や、本当に価値ある話、つまり耳が痛いけれど正論だなあと思う話が、宛名が書かれないままネットの海を中心に漂っていて、それに素直に従ったり、この好意に対して敬意を示したりするだけで、得られるものが山ほどある。
自分の能力が向上するだけでなく、その手紙の書き主との関係性も良くなりやすいおまけつきです。
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で、現代で僕が思う寛容な「ストイック」としての方法があるとすれば、この宛名のない手紙を、自分宛てだと信じて、思いっきり勘違いする力だと思います。
そこで起きる誤配みたいなものを、ドンドン積極的に受け入れる。
言い換えると、宛名のない「ド正論」のお話があったときに、勝手に自分宛てだと解釈をして、思いっきり叱られたと勘違いをして素直に受け入れる力によって、自己が成長していくと言っても過言ではない。
だからこそ、「これは特に明言されているわけではないけれど、宛先が間違いなく自分も含まれているだろうな」と思うようなコンテンツには、積極的に反応していったほうがいいと思うんですよね。
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当然、もし本当にそれが自分宛てだった場合においては、その人とのコミュニケーションは円滑になるし、そうじゃなかったとしても、その行動で得られた成果は自分の財産になる。
だからこそ、これは宛先が自分だと思ったら勘違いでも構わないから、積極的に受け入れてみて、その感想なんかもシェアをしながら反応していく姿勢が、今とても大事だなあと思っています。
それを書いたひとだって、その様子を遠目に観ながら「あー、ちゃんと自分の言葉が届いたんだなあ」と思っているはずですから。
文字にすると、実感や感覚的にとても変なことが起きているのですが、現状、結果を出しているひとたちは、そういうことをしているひとたちだなと思います。
令和の時代における寛容なストイックとは、つまりそういうこと。
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で、今度はその手紙を書く側の立場として、大事なことも合わせて考えてみたい。
この点、宛名を書けないからこそ、前提としている名宛人のひとたちが自然と読みたいなと思うものを書かなければいけないし、ソレが届く可能性が高くなる構造や仕組み、空間を構築していかないといけない。
そのための創意工夫が、いまものすごく書く側に試されているなと思います。
「嘘も方便」ではないですが、どのように相手に忌避されない形で悟らせることができるのかが極めて重要になってきている。
当然、だからと言って過度に煽ってもいけない。煽ると、逆に届かなくてもいいひとたちにまで届いてしまう。
もちろん、そのときに金銭的なインセンティブなどをつけすぎてしまっても、よろしくないと思います。有象無象のひとたちが集まってくるだけですから。
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で、ここで少し話を飛躍させて、さらに書き手の立場として、僕がものすごくおもしろいなと思うのは、この「宛先のない手紙」は、最終的には「自分」に届くってことなんです。
世界をグルっとまわって、思いも寄らない形で「未来の自分」に届く。
実際、僕はもうかれこれ15年近く毎日ブログを書き続けていると、自分が過去に書いたものが、思いも寄らない形で自分に届くことがある。
でも、それっていうのは明確に宛名を書かなかったからこそ、未来の自分に対しても届いているんだよなと思ったんですよね。
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これがもし、特定の宛名を書いてしまっていたら、それは自分には届かない。だって最初から、宛先が明確なんだから。
たとえば、昔誰かに向けて書いたメールが自分に届いた、なんてこと日々の暮らしの中ではよっぽどのことがないと経験しないと思います。
そして、そこで言ったことや書いたことは自分の中では完全に忘れてしまう、相手から「実はあのときに…」みたいに言われることもあるけれど、「そんなこと言ったっけ?」みたいな話になりがちで、それは相手の脳内補正もかかっていて既に相手のものだったりするわけです。
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宛名のない手紙を書いていると、気づけば自分に返ってくる、このあたりは、本当の郵便物と一緒だなと思います。
2〜3年前に自分が書いた内容などは、あまりにも稚拙で恥ずかしく感じる場合も多いんだけれども、それが10年も超えてくると、その書き手がたとえ自分であっても、それを書いたのはもはや赤の他人で、どれだけ稚拙でも「かわいいな」という感情に変わってくる。
ただ、そのかわいさのなかに秘められている、若さゆえの健気さとか生意気さとか傲慢さとかにハッとすることもある。
僕も本当に過去のブログを消さずに、そのまま残しておいて良かったなあと思います。
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で、なんで今このタイミングで、今日のような話を一生懸命書いているのかと言えば、これからの時代に、たとえどれだけ生成AIが普及したとしても「過去の自分の投稿」を生成してくれはしないから、なんですよね。
それは「当時の自分」が宛名を書かずに書いてくれたからこそ、今もそのまま残っているもの。
言い方を変えれば、「10年前に僕が書いたブログを生成して」と生成AIにお願いをしても、原理的にはそんなことは不可能なわけです。
そこに、どれだけ巧妙なエイジング加工が施されてあったとしても、それは「あのときの私」が書いたものではない。
一方で、未来の自分が書くであろうものは、生成AIで簡単に生成できる、そしてそれを認知すれば、それは私が書いたものになる。
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たとえば僕が、AIに「明日のブログを代筆して」と頼めばカンタンに書いてくれるわけですし、それを本人が認知さえすれば、それは未来の自分が書いたブログになる。
でも、過ぎ去った歴史だけは、どれだけ優れたAIでも決してつくれない。それはどこまで言っても捏造になるし、偽物に過ぎないわけです。
で、だとしたら、宛名のない手紙をたくさん出して、それを歴史として積み上げていくことが、これからの世界において重要な手立てになってくるはずですし、自らの人生を豊かにするための方法のひとつなんじゃないのかなと思います。
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さて、今日の話を最後にまとめておくと、
まずは読み手の立場として、宛先のない優れた内容の手紙らしきものは、ドンドン自分宛てだと勘違いしながら、貪欲に吸収をしていく。
わざわざリスクを被っても正論を書いてくれたひとを、絶対にキャンセルしない。むしろ積極的にその内容を受け入れて、自らの血肉にしていく。
そして、書き手の立場としては「相手に届けばいいな」と思いながらも、なるべく宛名は書かずに、相手が読みたくなるような真摯でおもしろい内容、かつそのための仕組みや構造、そのための空間づくりに精を出すこと。
それがきっと現代において、能動的にコミュニティづくりを行うべき理由でもあるかと思います。
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このような努力を淡々と続けているうちに、気づけばその宛名のない手紙が「自分自身」に届く瞬間が訪れる。
その時に自らが感じ取る歴史に裏打ちされた驚きや発見、学びみたいなものは、決してAIにはつくりだすことができない唯一無二の体験となる。
今のような社会状況の中で、地味にとっても大事な視点だなと思ったので、今日のブログにも書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/03/12 21:03