本日更新された、Podcast番組「なんでやってんねやろ?」の最新回の中で「睡眠について」語られてありました。
配信内では「大概の病気は、寝たら治る!」と半分冗談交じりで語られていましたが、僕もそう思います。
そして、そんな睡眠のときにイケウチさんの寝具は相性が抜群であるというのも、本当にそう。
実際僕も、イケウチさんのタオルケットを使うようになってから、日々熟睡することができるようになりました。
じゃあなぜ、イケウチさんの寝具、特にタオルケットは熟睡状態と相性が良いのか。
それを、今日のブログの中で少し変わった視点から個人的な見解を勝手に考えてみたいなと思います。
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で、まず結論から言えば、気持ちの良い寝具を変えると、身体感覚の方に意識が向かいやすく、自己や自我から意識が遠のくからよく眠れるようになるんだろうなあと。
きっとこれは、羊を数える効果なんかと全く一緒。
正しく数えることの方に意識が持っていかれて、ある種の瞑想状態に近づくことで、「眠らなければならない」という強迫観念から、逃れることができる。
だから、ともすればイケウチさんのタオルケットって「南無阿弥陀」を唱える効果なんかと一緒だと思います。
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じゃあ、それは、一体どういう意味なのか。
ちょうど、最近読み終えた内田樹さんと三砂ちづるさんの往復書簡が1冊の本になった『気はやさしくて力持ち』という本の中にも「睡眠」について語られてありました。
この本が、本当にとっても良かった!
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コロナ禍に往復書簡形式で書かれた本なのですが、対談ともまた異なるようなちょうど良い距離感でお互いが語られてりました。
ほんの企画趣旨は「男の子の子育ての仕方」だったらしいのですが、僕みたいに独身で子どもがいない身でも刺さるお話が非常に多く、読んで良かったなあと思える一冊です。
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で、今日ここでご紹介したいのは、子育ての文脈とはまったく関係なく、この本の中で語られてあった「不眠」のお話なのです。
一般的に僕らは、「眠れない」という不眠症状が出たときに「何かが足りない」と思うわけですよね。
だから寝具をより良いものに変えてみたり、睡眠薬のちからに頼ってみたり、日常生活の中の運動を増やしてみたりする。
その「何か」自体はわからないけれども、足りないものが何かを特定し、それを必死で補おうとする。
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でも、内田さんは本書の中で、本当は「足りない」のではなく「過剰なんだ」と言います。
では一体、何が過剰なのか。それは「自我」が過剰だと語ります。
この点、内田樹さんが研究されているフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは、人間にとって最も耐え難い苦しみは「自分が自分に釘付けになっていること」だと述べていたそうです。
少し本書から引用してみたいと思います。
たぶんレヴィナス自身、子どもの頃から不眠症で苦しんでいたのだと思います(僕もそうでした)。そして、あるとき不眠の苦しみは何かの欠如ではなく、何かの過剰であるということを理解した。「眠る能力」や「眠りの本質についての理解」が欠如しているせいで不眠の苦しみはもたらされているのではない。不眠の根源にあるのは、不眠で苦しんでいる自分をつい観察してしまったり、その原因を探ったり、その病態を仔細に記述したりしている自分自身だということに気が付きます。自我が過剰なせいで、眠れない。どうにかして自我を遠ざけ、自我の支配を弱め、自我への執着を手離さないと人間は眠れない。
これは本当に素晴らしい洞察だなあと思います。実際、自分が眠れなかったときのことを思い出してみても、本当にそのとおりだなと感じる。
いつもご紹介しているジブリ鈴木敏夫さんの言葉「自分のことばかり考えているから鬱になる」というのは、不眠にも全く同じことが言えて、「自分のことばかり考えているから不眠になる」ということなんでしょうね。
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で、僕が「不眠」の話でいつも思い出すのは、村上春樹の『眠り(ねむり)』という短編小説です。
この小説は、突然眠ることのできなくなった世界を描いた名作。『TVピープル』という短編集に収録されていますが、この短編だけでも1冊の単行本になっています。
ちなみにどんな内容なのかを簡単に説明すると、主婦であり夫と息子と穏やかな生活を送っている女性の主人公は、ある日突然「眠れなく」なる。眠りを失った彼女は、不思議にもまったく疲れを感じずに、次第に夜の孤独な時間を楽しみ始めるというなんとも不思議な物語。
そして、この作品も、レヴィナスや内田さんが語る「過剰」を見事に描いている作品だなと感じるんですよね。
ここで詳しく書いてしまうと、ネタバレになってしまうからあまり深く内容には言及しませんが、眠れないことで無双状態になっていく主人公の女性が本当に清々しい。
ただ、そのあまりの清々しさゆえに、少しずつ後半になると雲行きが怪しくなってくる。
そして、そんな彼女が最後はどうなるのか、その最後の終わり方まで素晴らしいんですよね。一度読んだら決して忘れられない内容だと思います。
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この小説を通しても思うことは、僕らは本当は覚醒と睡眠において、とても大きな勘違いをしているのかも知れない。
「押してダメなら引いてみろ」じゃないですが、僕らはある種の「絶対他力」に促されて、毎日毎日眠っている。
内田さんは「よくよく考えると、僕たちは実は『眠り方』なんて知らないのです。いつも気がついたらもう眠っていた。『眠り』は不意に訪れる」と書かれていましたが、本当にそうで。
これが親鸞の悪人正機みたいな話にもつながるなと思うんですよね。老子のいう「無為自然」のような境地でもいい。
だとすれば、睡眠で大概の病気が治ってしまうのも、理屈がつく。
逆に『眠り』の主人公のように、一切眠らずに覚醒し続けると、その逆のことが起きてくる。
ネタバレがない程度に、本書の好きな箇所を少しだけ引用してみたいと思います。
「何かが間違っている、と私は思う。落ち着いて考えれば上手くいくのだ。考えるんだ。落ち着いて・ゆっくりと・考えるんだ。何かが間違っている。何かが間違っている。でも何が間違っているのか、私にはわからない。私の頭の中には、濃密な闇が詰まっている。それはもう私をどこにも連れていかない。」
このように、基本的に僕らは過剰なんだと思います。ヒト・モノ・コト、食物、情報すべてにおいて過剰。
そして、自力に頼りすぎて、最後は濃密な闇に自ら飲みこまれてしまう。
でも本当に大事なことは、その過剰な状態から離れること。そして、絶対他力に導かれること。
それを一番直感的に、それこそ東洋思想的に体験として味わえる毎日の体験が、「睡眠」であるということなんでしょうね。
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睡眠で回復するのは、再び”何か”が睡眠によって貯まるからではなく、日常の中における過剰性が取っ払われていくから。
眠いときは、一日の終りで、体力を使い切っていたり疲れていたりして、体力のゲージやMPみたいなものを再び貯める瞬間だと思いがちだけれども、本当は日常のなかでこびりついた垢や汚れを落とす「入浴」なんかにも近いのかも知れない。
生まれた時の状態に少しでも近づけるように、そのための日々繰り返す「小さな死」のようなものが「眠り」なのかもしれない。
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だから冒頭で、僕はイケウチさんの寝具というのは「南無阿弥陀仏」みたいだと思うと書きました。
実際にはそれを唱えたときだったり、唱えた回数を数えるときの数珠みたいな役割を果たしてくれる。身体感覚の方に、意識を向けるための道具みたいなものでもある。
あまりの気持ちよさに、自我意識を完全に持っていかれるから。ベッドに入る瞬間まで思い悩んでいたことなんかも、一気に忘れてしまえる。
僕自身、イケウチさんのタオルケットを使い始めてもう 2年ぐらい経ちますが、未だに布団に潜り込んだ瞬間に「あー、これは気持ちいい」と意識がすぐにタオルケットのほうに持っていかれる。
そして、気づけば「眠り」に誘われているわけです。
なんだかとても「他力本願」甚だしいわけですが、おかげで眠れないという悩みからは、今のところ無縁の状態でいられています。
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実際、イケウチさんのタオルケットに変えると一番何が変わるかって「夢」が変わるなと感じています。
「おいおいなんだ、唐突にスピ系かよ」と思われるかもしれないけれど、寝ている間にちょっと目が覚めて、その現実か夢かわからない「あわい」のような朦朧としているタイミングのときに、タオルケットが直接肌に触れて感じられるその心地よさの刺激は、意識ではなく、直接身体に訴えかけて来る感覚で、結果として見る夢が変わる。
これが、毎回すごいなあと思います。
夢が変わるというのは、無意識の領域まで身体感覚が深く入り込み、潜在意識に影響を与えている証拠でしょうからね。
スピリチュアルというよりも、生理的・身体的に「無意識に訴えかける」要素があるということなのだと思っています。
今日はなんだかわかったような、わからないような話を書いてしまったかもしれないですが、ぜひイケウチさんのタオルケットは実際に試してみて欲しいですし、突然なぜだか眠れなくなったという方にとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。