昨日、こんなツイートをしてみました。



予想以上に共感してくれる方が多くて、とても嬉しいです。

「こんな関係性を築くことができたら理想的。そんな相手を見つけることができたら最高だ」

そのような反応も見受けられました。

ーーー

でも、実はこの話、憲法が一番大切にしている「個人の尊重」そのものなのです。

第13条「すべて国民は、個人として尊重される」

その意味するところは、「自分の命、他者の命がそこに存在すること自体に価値があることを認めよう」という内容であり、憲法が最初から規定している話なのです。

一体何のことだ?と思われるかもしれないので、法律の専門家である伊藤塾・伊藤真さんの文章を以下に引用してみます。

ー引用開始ー

世の中には経済的な価値、つまり貨幣価値と交換するときにどれほどの価値があるかという物差しがあります。資本主義経済の中で生きる私たちにとってこうした交換価値はとても重要な意味を持ちます。どれだけ役に立つかという視点と考えることもできます。

しかし、世の中には交換価値では測れない「存在自体の価値」もあるのではないでしょうか。たとえば、命はそこに存在するだけで価値があるというようなことです。人の命は何かの役に立つから価値があるのではなく、代替性のない一回性のものとして存在するだけで価値があるのです。自分の命、他者の命がそこに存在すること自体に価値があることを認めようという考えが憲法の基本だと理解しています。

豊かな人も貧しい人も、健康な人もハンディキャップのある人も、人種も宗教も年齢も性別も一切関係なく、そこに個性を持った一人の個人として存在する限り、かけがえのない価値があるのです。凶悪犯も問題行動を起こす子どもも含めて、誰をも個として尊重する。これが憲法13条の個人の尊重です。

引用元:第276回 存在価値

ー引用終了ー

このように、国民の人権として「個人の存在価値を認めよう」と憲法第13条「個人の尊重」に最初から書かれているわけですね。

つまり、いま議論されているような生産性や差別、偏見に関する最新の議論もひっくるめて、実は75年前につくられた憲法にはすでに織り込み済みだったというわけです。

これこそまさに、先人たちの智慧であり、人類の叡智と言えるような話だなと僕は思います。

ーーー

「運命的に、心から大切なひとだと思えるひとに出会えたら、私にもそう思えるかもしれない。」

そうではなく、いま目の前にいる赤の他人に対しても、その存在価値を認めようというのが、憲法が規定するところなのです。

そして、これは何も極端な話やキレイごとではない。

これを、極端な話だと思ってしまうこと自体がきっと、近代資本主義の呪いにかかってしまっている証拠なのだと思います。

ーーー

無意識のうちに、「交換価値」や「生産性」だけがこの社会における唯一無二の価値だと思いこんでしまっている。

本来は、ただ存在してくれているだけで価値がある。そんな"存在価値"を認め合える関係性がひとりひとり中に着実に意識として芽生えていけば、差別や偏見もこの世から少しずつ減っていくはずです。


せめてこのWasei Salonの中だけでも、メンバー同士がそんな存在価値を互いに認め合う、ある種のリハビリ施設のような役割(空間)として作用してくれたら嬉しいです。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。

ーーイベント告知ーー

2021年3月に開催されるWasei Salonの外部向けイベント兼サロン説明会はこちら。