最近、ひとの短所とはなんだろう?とよく考えます。
ひとは、世間一般的に語られる「短所」は自分の中から消し去りたいと願う。
そして、一般的に社会から「長所」と呼ばれるような部分を、身に着けたいと渇望する。
先日Voicyの対話会で配信した「モテ」のような話なんかも、まさにそうです。
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僕がこの点で最近非常に驚いたのは、伊集院光さんのラジオ番組にゲスト出演されていた黒柳徹子さんが、自分の個性を最初は短所だと思ってオーディションの現場で「何でも修正します!」と語っていたというエピソード。
でも、黒柳徹子さんのあのキャラクターがなくなってしまって普通の女優さんになってしまったら、もう彼女の魅力が半減してしまうように、本来プロデュースとは短所こそが個性であり、花なわけですよね。
この点に関連して、以前もご紹介した山口周さんの『人生の経営戦略』という本の中でも似たような話が語られていて、非常にわかりやすかったので、以下で本書から引用してみたいと思います。
プロデュースにおいて重要なのは「点を矯正する」ことではなく「ユニークな点を伸ばす」ということです。私たちは往々にして「人の点」を見て、それを矯正しようとしてしまいますが、プロデュースにおいて重要なのは「人のユニークな点」を見て、それをどう時代の文脈で意味づけるか、ということなのです。
なぜなら社会で評価されるのは「平均点」ではなく、他人には真似のできないユニークさだからです。
これは本当にそのとおりだと感じます。
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で、山口周さんはこの主張を通して「自分で自分をプロデュースしよう!」という視点を提案するわけです。
もちろん、それができる人であれば何も問題ないのですが、それができるぐらいメタ認知が進んでいれば、毎日の悩みのタネである短所自体も意識して消し去ることができるわけだから、それができなくて困っているという話でもあると思います。
相当、プロデューサー気質がない限り、自己をプロデュースするなんてことは、めちゃくちゃむずかしいわけですよね。
だから、他者が働きかけるものとして、今も根強く存在するお仕事がプロデュースなのだと思うのですよね。
逆に言えば、「短所さえも、自分ひとりでなんとかしなければいけない」と自己責任論に陥りがちな現代社会に対して、僕はものすごく違和感がある。
短所の活かし方ぐらい、人に頼ればいい。
その短所が尖っているほど、逆にレバレッジが掛かって、それは一気に長所に変わり得る可能性なんかも秘めていて、より多くの生産性や経済的価値を生むようなものになる可能性だってあるわけだから。
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そして、そんなときには、嘘というものは全く通用しない。
相手の中にある可能性を、先に思いっきり信じないと、短所は長所として花開かないわけです。
最初から、相手の種の中に眠っている花の部分にフォーカスをすること。その花自体が既に開花しているかのような気持ちで、先に受け入れてしまうこと。
今時期で言えば、この咲き誇る桜の花を、1月ぐらいのタイミングから、満開を想像して丁寧に寄り添うこと。
そんなふうに短所を長所に裏返った状態、花を咲かせた状態として受け入れることが僕はプロデュースの本質だと思っています。
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じゃあそのためには、一体どうすればいいのか。
短所だと思っている理由をひたすら対話の中で聴き続けて、その思い込みを丁寧につぶしていくということが大事なのでしょうね。
今朝、ちょうど東畑開人さんが『嫌われる勇気』について、Twitter上で以下のようにつぶやいていて、コレにはとてもハッとしました。
この逆説的な展開は、本当にそのとおりなんだろうなあと思います。
徹底的に批判をさせれば、むしろうまくいくパターン。押してダメなら引いてみろという好例です。
つまり、なぜそのひとがそれを短所だと感じているのか、徹底的に本人に批判をしてもらう。
そうすると自然と、「あれ、なんでだっけ…?」となっていくパターンが対話の中には存在していて、このパターンに持ち込むことは対話なら十分に可能。
だからこそ、やっぱり他者との対話を通して、プロデュースを行うことが大事なんだろうなあと思います。
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とはいえ、ここまでの話を全部ひっくり返しますが、やっぱりそれは、思いっきり短所なんです。
一般社会や世間からは迷惑な行為であることに変わりない。
当然ですが、迷惑だからこそ、それは一般的にはネガティブに捉えられているわけですから。
で、そうだとしたら、もっともっと大事なことは、その相手のことを受け入れる周囲の人間側の認識も同時に変える必要があるということ。
そのための物語を生み出して、空気や文化のほうを変える必要があるわけです。
僕はそれがコミュニティという存在や、コミュニティオーナーの役割だと思っています。
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「文化をつくる」とか「文化を創造する」という話は、短所を長所として捉えられる可能性を物語形式で提示する、そこに訂正可能性のような力を働かせるということだと思います。
そうやって、本人よりも、周囲の受け止め方のほうを変更してしまう。
「そんなのはまやかしだ!」と思われるかもしれないし、実際にそんな面があることも否めないけれど、でもクラスやコミュニティ単位なら、そんなまやかしでさえも、可能だと思うのです。
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そして、そのまやかしの結果として実際に短所によってコミュニティ内で人の役に立てればいい。
具体的には、コミュニティに貢献しプラスの要素が生まれていればいい。
少なくとも、マイナスよりもプラスのほうが大きければ、そこには間違いなく価値が生まれていく。このあたりは、めちゃくちゃプラグマティックに考えたいことだなあと。
ならぬものはならぬのです、ではなくて、一般的ににはならぬことだけれども、意外と役に立ちましたね!という発想の転換を、いかに実体験として両者ともに味わってもらえるか、そのためにこそコミュニティが必要なんだろうなあと思っています。
もちろん、期待されているからこそ、本人の側でも、常に自然と微調整が行われていくことも肝心な部分であって、つまり両方の歩み寄りが、そこで育まれるわけですよね。
ここにも明確な価値が宿ると思うんですよね。
最初から、ネガティブにしか見られていなくて、全く期待されないどころか、鬱陶しく思われている匂いを感じ取ったら、お互いに歩み寄る気が失せてしまうのは当然のことです。
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で、この話っていうのは、見方を変えれば、ポジティブに受け入れてくれる相手が一人だけだったり、それを続けていく中で辛くて途中で投げ出しそうになるときに、どうやって共にいる状況を作り出すのかということだと思っています。
「私はできる!」というような個人幻想や、「あなたなら大丈夫!」という親の無条件の愛のような対幻想だけではなく、コミュニティとしての共同幻想に落とし込んでいくこと。
最初から、社会全体の共同幻想にしていくことはむずかしいことだとしても、コミュニティの中なら意外とサラッと変わったりもする。
逆に言うと、コーチングみたいなものがなかなかうまくいかない理由は、コーチとクライアントの対幻想がどれだけ美してくても、というかそれが美しければ美しいほど、社会や世間と乖離が生まれてしまう。それを架橋する役割として、コミュニティが必要。
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その中間共同体としての共同幻想の第1段階目が存在すれば、それは存在してもいいものとなるし、そのうちに社会や世間の中でも、受け入れ方も徐々に変わってきたりする。
それは様々なマイノリティが通ってきた道だと思います。
言い換えると、対幻想から一気に社会全体の共同幻想へと昇華された事例なんてほとんどないはずで。
まずはその中間共同体の中にある「普通」や「常識」が、社会全体でも時代が変わるにつれて受け入れられていくという流れで、世の中のマイノリティは社会の当たり前として受け入れられてきたと思うんですよね。
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そのための前段階としての「小さな現実」をつくりだすこと、それがコミュニティの役割だと思っています。
社会不適合者と言われるひとの一見すると短所だと認定されるような個性も、社会とはまた違う価値観で駆動する別世をつくって、そこでその短所を起点にしながら才能を思う存分に発揮してもらう。
何度も繰り返し書いてしまいますが、鈴木敏夫さんがスタジオジブリという別世を用いて、宮崎駿さんや高畑勲さんに対してそうしたように、です。
そして、その短所と言われるところから創造された圧倒的なクリエイティブ、その才能に触れてもらって、世の中の方の価値観を変えていくというプラグマティックな手段が、実は一番効果的なんだろうなあと思います。
それが、本来のコミュニティの役割。自分には短所があると感じているひとほど、Wasei Salonにもぜひ参加してみて欲しいなあと思います。
必ずそれは、長所に変わり得るはずですから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。