昨夜、Wasei Salonの中でほしまどさんが主催してくださった「趣味とは何か」を考える対話会が開催されました。

https://wasei.salon/events/dfcb925fbcda

その中の後半で語られたのが、仕事と趣味の違いについて、です。

僕がみなさんのお話を聞かせてもらいながら自分で考えたのは、趣味と仕事の違いって結局のところ「社会に対する責任感の有無と、そこから生まれる世間への配慮義務の有無」なんだろうなあと思いました。

つまり趣味というのは、社会人である人間が社会人であることを一旦小休憩して、身勝手でいられることが唯一許されるところに、その魅力があるんだろうなあと。

言い換えるならば、イチ仕事人としてではなく傍観者や無責任で要られることが趣味における非常に重要な要素と言えそう。

一番わかりやすいのは、場末の居酒屋で野球の采配に対して、無責任にヤジをとばしているようなおじいちゃんのような存在。

あとは、バカンスに行く先の飛行機の中で人が倒れて、仮に自分が医師だったとしても、今は業務時間外であって完全に無視をしても咎められないような状態、それが趣味の時間とも言えそうです。(もちろん、倫理的な問題は別)

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でも、そうやって考えてくると、とっても不思議なことに気が付きます。

それは、今の世の中は、そんな趣味に興じているひとたちに対して「善良なファン」や「善良な人間」でいることを過度に求めている世の中であるということです。

でも、それだともはや「仕事」と一緒なんですよね。

公序良俗やあからさまな法律に違反していない限り、社会的な責任や政治的責任から逃れられること、その肩の荷を下ろせることが趣味という領域の大きな醍醐味だったのに、今はその趣味の領域でさえも「善良なファン」の態度を要求される。

その違和感や、居心地の悪さが、現代社会において「趣味」ということについて考えたときに無駄にモヤモヤとさせられてしまう原因なのかなあと僕は思いました。

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実際、ここ十数年で、趣味の立ち位置はSNSの登場によって大きく変化した気がします。

具体的には、最初は趣味の交流の場の極みでもあったようなTwitterという空間が、いまや社会的な責任、政治的な責任、それをお互いに押しつけ合うイデオロギー論争の極みみたいな空間になってしまっている。

同じ趣味を持つ者同士が繋がることができた正の側面だとしたら、いまはその負の側面のほうが際立っている状態だとも言えそうです。

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この点、いわゆるよく議論になるスポーツ選手やアイドルなど、完全に趣味の分野で活躍するスターたちが政治的な発言をすると一気にネガティブなコメントが届くという現象、あれは自分の趣味の世界にそれらを持ち込まないでくれってことが言いたくて、主張されている言説なのかもしれないなあと思いました。

リベラル派の人々は、そのようなファンからの圧力を「けしからん」と怒る。

もちろん、スポーツ選手もアイドルも、一人の人間なのだから政治的言説を行うことも当然なんだけれども、何でもかんでも政治や社会問題に回収されてしまうことは、最後の砦が侵食されているように感じてしまうファン心理も、一方でとてもよくわかる。

そうなれば間違いなく自分たちも政治的、社会的な責任のもとに応援するかどうかを決めければいけなくなりますからね。

そのような意見が、推している人間から表明されてしまった以上、自分もその人間を推すのかどうかを社会的、政治的に真剣に考えないといけなくなるわけです。それを無意識に避けたがるファン心理もよく理解できる。(もちろん、口封じをしようとする言説を肯定しているわけでは決してないです)

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さて、話をもとに戻しますが、趣味人であっても「善良なファン」であること、それに越したことはない。

自ら進んで、善良なファンであろうとすることは大変尊いことだし、ものすごく理想的な世界観だと思います。

ただ、それを果たして強いることはできるのか。

そして、人間という生き物が、趣味という時間内においても本当にそれをを行うことが現実問題として可能なのかも、同時に考えないといけない。

繰り返しますが、それは「趣味≒仕事として捕らえろ」ということと同義であるわけだから。

そもそも、趣味というのは、そのような社会的な責任(仕事)から逃れられることにこそ、意味があったとも言えそうです。

無責任に身勝手にいられることに、価値がある。好き勝手に「消費」できることに何よりも価値があったように、僕には思います。

僕だって、例えば趣味として読んだ本、その全てに自分の署名入りで感想を書けとか、読んだ感想の発言のそのすべてに責任を取れといわれたら、とてもじゃないけれど本も映画もまったく観たくない。

公に公開されてしまったら、都合が悪いことも山ほどあるからです。

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実際、友人や仲間内だけ、またはこのWasei Salonのようなクローズドの空間があって好きなことを言っていられる瞬間もある。

でも今は、Zoomみたいなオンライン会議の場であっても、カメラに写っている相手だけが聴いているかと思いきや、その背後に別の人間が居たということだって頻繁にあり得るわけです。

どこに言っても、言質が取られる世の中。

そして本当に全員が丸裸で、絶対に録音されていない状態は、「サウナ」ぐらいしかない。

このような世の中でサウナが流行る理由もわからなくない。

とはいえ、そんなサウナでさえも、サウナに入る動画が、You Tubeにはバンバン上がっているような世の中でもあるわけですよね。

「ととのう」という状態というのは、その瞬間を「自分」のことを社会的に認知している人間に見られないからこそ落ち着けるはずなのに「見せるサウナ」とかやっているひとたちは本当に狂っているんじゃないかと思う。来るところまで来たな、と。

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さて、そうすると、何が起こるのかといえば、次第にそのような「政治的な正しさ」や「善良なファン」としての「まなざし」を全員が内面化していくわけですよね。

「目には目を、歯には歯を」という状態になる。それは、よっぽどの人徳者ではない限り、絶対にそうなると思うのです。

知らず知らずのうちに、自らが取り締まる側の警察役となる、規律訓練型権力のように。

いつだって自分が罰されるかもしれない世の中に生きているわけだから。自分だけが処罰される側じゃなく、自分だって同じように処罰したい。

結果として、人々が自然と自警団化していく。そうやって自分が鉄槌を下す側に回ろうとするのは、当然のことだと思います。

そして、日常会話の中でも「今の発言ってアウトだよね…?」と、別にそこにその当事者がいるわけでもないのに、お互いにジャッジをし始める。

そして、その発言者が居ない場所で、そのような不適切な発言をまるで公の発言として行われたかのように、リークをする。たとえ趣味の領域の事柄で起きたことであっても、です。

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この漠然とした生きづらさ、それが今の世の中には蔓延しているなあと思います。

僕らは本当にお互いに、そういう社会的・政治的正しさでジャッジし合う「まなざし」で満たされてしまった世界に生きたいのか。

大事なことなので何度も繰り返しますが、政治的な正しさを求めることは本当に尊いことですし、万人の人権を認めるようなリベラリズム的な世界観を求めて、真にそれが実現された世界が存在すれば、それは理想的な世界観と言えるでしょう。

だから、それは本当に僕も大事なことだと思うけれども、他者にそのような「まなざし」を向け続けたいのか、と。

言い換えるのならば、社会的責任、政治的責任はそこまで他のすべてのことを差し置いてでも、優先されるべき事柄なのだろうか。

「当然だろう!そういう無責任で身勝手な発言によって、社会的弱者が苦しめられて足を踏まれてきたのだから」と言われてしまうこともよくわかっている。

そういうひとたちが世の中に増えて自警団を形成するのは仕方ない。

ただ、一方で、バカなこと、くだらないこと、ひとでなしのことを実現できる空間も、同時に大事にしていきたい。

さもないと結局、守秘義務を守るという法律の保護下にある、有資格死者としてのカウンセラーや専門家だけのもとでしか大事なことは絶対に話せないという世の中になってしまうから。

すべて守秘義務を約束してくれる「お金」で解決するような世の中になる。赤の他人に金を払ってまで聴いてもらうという謎の世界線が始まってしまう。

そのような社会が誰にとって都合のいいことなのかも、今一度考えた方がいい。

何でもかんでも、正しさに満ちたクリーンな世界は気持ちがいいかもしれない。でも、クリーンな状態だけでは、ひとは絶対に生きられない。

ここの落とし所を、ひとりひとりが真剣に考えないといけないフェーズに入ってきたなあ改めてと思います。本当に「新しい戦前」という言葉がぴったりな気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。