これまで過去に何本か「ハンドメイド」についてこのブログでも書いてきました。


今日は「意味」をハンドメイドすることが、今とっても大事なことだなあと思う理由について書いてみたいと思います。

これからの時代においては、この技能を身につけることこそが、かけがえのない「財産」となり「資産」そのものだよね、というお話です。

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というのも、きっかけは先日、タイムラインでも共有したように大手セレクトショップの70%〜80%オフという破格の投げ売りセールを見て、あまりにも酷い有様だなあと思ったことがそのきっかけです。

明らかに原価割れしているような状態のものが、そこにはズラッと並んでいる。

では、これらの商品はなぜここまで値引きをしても売れないのか?

きっと多くの人は、品質が悪かったりデザインが流行遅れで、ダサかったりするんだと思うはず。

でも、実際はそうじゃないんです。

それらの商品は決して、品質が悪いわけでもなく、時代遅れのデザインであるわけでもない。ただ、そこに「意味」だけがない状態。

私が手に取って、私が実際に買おうと思わされる「意味」だけが足りないわけです。

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これはペットでいうところの保健所行きの状態と一緒だと思います。

保健所送りにされているペットが、家族のように愛されているペットよりも、何か明らかに劣等で、デザインも醜悪なのかといったら、決してそうではないですよね。

命の尊厳としては本当に対等であり、平等です。

じゃあ、なぜ彼らが保健所送りになってしまうのかといえば、そこに人間とのあいだに構築される「意味」がないからですよね。

逆に言えば、保健所行きのペットを保護することの意味があれば、彼らはちゃんと保護されるはず。

実際、現代はペットショップが過去に行ってきた悪行が暴露されて、きれいなペットショップで犬猫を買うことはカッコ悪いことだとされていて、逆に命を救うことがカッコいいこととされてきているからこそ、そこにそのような「意味」が付与されて、保護犬や保護猫を自らの家族に招き入れるひとたちも着実に増えてきているわけですよね。

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さてこのように、現代には「意味」だけが欠落しているがゆえに売れずに残っているものって山ほどある。

「質」と「デザイン」と「意味」の3つの基準でいくと、質とデザインがあったうえで意味があったほうがいいよね、って一般的には思われるはずなんだけれども、僕はむしろこの「意味」が一番大事な基準だと思うんです。

たとえば、これは絶対に表では書けない話だけれども、世間の多くのひとは、質(性格)とデザイン(見た目)が客観的に決していいわけではない奥さんや旦那さんと、当たり前のように結婚をしているわけじゃないですか。

じゃあ、なんで(一応)一生に一人だけしか選べない相手を、その質やデザイン面で明らかに劣るとわかりつつも結婚しているのかと言えば、そこに圧倒的な「意味」があるからですよね。(『星の王子さま』のキツネみたいな話です)

しかもそれは、「私とあなた」の中だけで成立する至極私的で個人的な意味であるはずです。

意味っていうのは、本来それぐらい質やデザインを圧倒的に凌駕するもののはずなんです。

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でも今は、エビデンスの世の中だから(しかもそれは、人気だから人気だというような実態がないエビデンスを求め合う世の中だから)、質とデザインに対する客観的な証拠ばかりを求め合っているような、変な世の中でもあるわけで。

だからこそ、そのような戦いの螺旋から一刻も早く降りて、一番最初に他者や対象物との「意味」を自分自身でハンドメイドできるひとは強いなあと思う。

これさえあれば、人生一生安泰だと言えるぐらいのスキルであり、一生誰にも奪うことができない「資産」だと思うのは、それが理由です。

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では、なぜ「意味」が大事なのにも関わらず、大手セレクトショップや百貨店のような場所は、そのような「意味づけ」を過去に行ってこなかったのか。

この点も、ここまで考えてくると意外と不思議だと感じてきませんか。

その理由はきっと、マスメディア主流であった時代には、大衆文化や慣習、ストリートカルチャーなどのほうが大切で、売手と買手の私信的なやり取りがむしろ邪魔だったからなのだと思います。

逆に「文脈」がないことのほうが買う人たちにとっては都合が良かった。意味付けは、そのあと持ち帰ったあとの共同体の中でなされていたからです。

また、もちろんそれまでは「やすかろう悪かろう」の時代でもあったというのも大きいかと思います。品質やデザイン保証こそが、そのような大手の販売店の役割だったと。

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さて、このような意味の欠落ゆえに、ここ10年ぐらいで一気に勃興したのがD2Cブランドです。

彼らは様々な起業理由を語りますが、実際は一様に現代では売れないものに対して「意味」を付与しようとしたのだと思います。

SNSの発達で、オフラインでの共同体が崩壊してしまったけれど、スマホの画面越しで「意味」を構築し合うことができるような世の中になったから。

でも、D2Cブランドの商品は、単純に高い。多品種小ロットでつくられるものは、何でも割高で、そしてデザイン力も一般的には劣るわけです。(厳密に言うとデザインが良いと錯覚できるブランディング力)

あと、みんなが似たように意味付けをしていくと、やっぱりその意味さえも次第にコモディティ化してくる。

具体的には、似たように環境問題をうたい、似たような温もりをうたい、似たようなエモさを過剰に演出してくる。

そのうち「意味のためだけに、この値段払うのはどうなんだ?」と思われるようになり、結局は応援消費みたいになってしまって、より便利なUNIQLOとか無印とかに、ひとは流れてしまうわけです。

人間、そんなにずっと意識高くはいられませんからね。

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だから、たぶん本当に復活させるべきは、「ひと」のほうであり、共同体のほうなんですよね。

コミュニティがあったからこそ、意味のある贈り物だったという、その共同体のほう。

この点、最近すごくおもしろいなあと思うのは、「手紙」という存在です。

トークイベントなどで、「手紙」というワードが出てくると、聞き手の目の色が変わり、その場の空気もガラッと変わります。

僕も過去に、何度もトークイベントの中で「僕らがつくっているウェブコンテンツは、置き手紙なんです」という話をしてきましたが、そうすると本当に観客のみなさんの食いつき方がまるで変わってくるという体験を、何度もしてきました。

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これがいつも、本当に不思議でおもしろいなあと思います。

だって、現代人の多くが、手紙を書いていないのに、です。

いや、書いていないからこそ、逆に食いつくということでもあるのでしょうね。

宛先が不明のまま書いているものや、宛先が誰でもいい仕事、そんなブルシットジョブを担っているひとたちが、いまこの世の中には多すぎる。

「ペルソナ」というような、あたかもこの世に存在しそうな存在に向けて日々仕事をしているのだけれども、そのペルソナがいざこちらを振り返ったら「顔」だけがなかったというような、そんなホラー映画の中に出てくるような、のっぺらぼうの存在に向けて誰もが仕事をしている。

そんな自分の愚かさを無意識のうちに感じとっているから、ハッキリと顔のある他者に向けた「手紙」というワードに強く反応するのだと思います。

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だったら、その宛先のある手紙を書くような仕事をしましょうよ、と僕は素直に思う。

僕自身も、毎日ほかでもないこの場にいるみなさんに向けて、手紙を書いてる。(ようにブログを書いています)

ここにいる人々に向かって、毎日毎日語り続けながら、ものすごく私的な意味を、みなさんとの間で必死に構築しようとしているわけです。

ちょっとずるい言い方をすると、そうやって僕が作り出す共同幻想に全力で巻き込もうとしています。

それこそが「意味」をハンドメイドすることであり、今一番大事なことだと思っているからです。

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で、僕は「置き手紙」という表現も、最近はなんだか違うなと思うようになりました。

むしろ、ちゃんと宛先のある、特定の個人に届く手紙であることが大事。

そして、その手紙自体に「誤配」が起きやすい状況が、SNSやインターネット、もしくは出版文化の一番の利点なのだと、この歳になってやっと気づくことができました。

ここが今日めちゃくちゃに強調したい一番のポイントです。

ほかでもない、あなた宛の私信だから意味がある、そこに価値が生まれる。

ただ、そこにインターネットを介在させることによって、あのひとに書いたはずの手紙が、思いもよらないひとに、届いてしまったというような状況が偶然に起こる。

「私とあなた」の私的な「意味」が、想像もしなかった圧倒的な他者に伝播していく「余白」がそこに生まれるわけです。

それが、インターネットの本当の価値。そして「作品づくり」の価値なんでしょうね。

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自らが所属する共同体や、直接にあの人に向けて「意味」を作り出す。

万人を対等に扱うという「リベラリズムの思想」はそのあとからでも遅くはない。

というよりも、これはものすごく逆説的だけれども、それが可能となるからこそ真のリベラリズムが、実現可能になるのだとも思います。

最初から顔のない他者(のっぺらぼうのペルソナ)、そんな万人に向けたリベラリズムというのは所詮、絵に描いた餅です。

最後は、なかなかに抽象的で感覚的な話をしてしまいましたが、それでも今日のお話がみなさんにもハッキリと伝わっていたら幸いです。