ひとの中には「認められたい」という強烈で根源的な願望が存在します。

誰もが「自分の存在を、他者から認められたい」そう願ってやみません。

きっと、この欲求こそがすべての欲求の源であり、世の中のありとあらゆる善行や悪行もまた、すべてはこの「認められたい」という目的(ニーズ)を実現するために行われているはずです。

それゆえに、どんな手段でも構わないから、他者からの認識や「まなざし」を求めて、ひとは無差別殺傷などの凶悪な犯罪にも手を染めてしまうのでしょう。

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思うに、人が求めているのは一般的に語られるような「愛」や「友情」なんかではないと思います。

本当にただ単純に、他者から「私」という存在を認められたいだけ。

それを、包摂できるのは目の前の相手から発せられる「敬意」でしかないような気がしています。

言い換えれば、しみじみと相手から感心されること。「この人は、余人を持っては代え難いところがあるな」と相手から思われること。

それは以前に下記のブログ内で、内田樹さんの言葉をご紹介して説明した通りです。

「目の前の相手に敬意を示す」という文化をつくりたい。

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こんな話を至るところで繰り返すようになり、僕がWasei Salonという「対話型コミュニティ」を運営しているからなのか、

「鳥井さんは、自分の話を聞いてもらえる場を提供されているんですね」と言われることが増えてきました。

つまり、誰もが自分に対して敬意を払ってもらえるような空間を提供していると思われている節があるようです。

でも僕は、これを明確に否定したいと思います。

確かに、このサロンに参加していることで、他者から無条件に話を聞いてもらえる機会は得られるかもしれない。

でも、それ以上に「私が他者に敬意を持って接する体験」のほうが、より一層重要かつ貴重な体験だと思っています。

つまり、他者から敬意を払われることへの「快楽」ではなく、私から発せられる何の変哲もないと思っているこの敬意が、こんなにも根源的にひとを喜ばせる力を持っているのかという「貢献」感のほうを身をもって実感してみて欲しいのです。

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思うに、現代に生きる多くの人々が、自らの敬意には何の価値もないと思って日々を生きています。

それも当然ですよね、現代においてどれだけ尊敬する他者に対して強く敬意を示してみたところで、結局のところ、その人の何万、何十万、何百万と存在するフォロワーの「1」という数字にしかなれないのだから。

これだけ圧倒的な無力感を感じさせられる瞬間というのは他にないと思います。

だからこそ、私の敬意なんて何の価値もないと誤解してしまう。

でも、本当は「私」から生まれてくる分け隔てない他者への敬意が、世界を変えてしまえるだけの力があるはずなのです。

目の前の相手が、それによってみるみる活力を得ていく様子を見ながら、その真の効力を実感してみて欲しい。それが僕の心からの願いです。

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これは、敬意を持たれて話を聞かれる側、敬意を持って話を聞く側、そのどちらの立場も同時に体験して初めて、その真の価値を実感することができる。

決して他者をコントロールすることではない、アドバイスをすることでもない、その人がその人であり続けて欲しいと願うだけでいい。

そして、この「敬意」の日々の実践こそが、一番大きな他者と分かち合える私の財産であると心から理解することができるはずなのです。

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世界や社会に対する一番の貢献は、他者より優れた「能力」や「実力」の証明なんかじゃありません。

もちろん、目の前の人間を無条件に愛することでもない。

誰もが今この瞬間から実践できる、敬意を持って相手に接すること、本当にただそれだけです。

最終的には、私の中から自然と湧き上がってくる敬意を他者と分かち合うことが、「他者から認められたい」という願望以上に、強い生きる喜びを私に与えてくれるのだと感じてもらえるとしたら本望です。

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