労働環境の改善という話になると、どうしても「労働内容や労働時間を制限しましょう」という方向に話が進みがち。

でも、その本来の目的は「働く中で、うんざりしてしまうこと、絶望することを避けること」だと僕は思っています。

このふたつの事柄さえしっかりと避けることさえできれば、本来人間にとっての労働は喜びに変わりうる。

今日はそんなお話を少しだけ。

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そもそも、なぜひとは労働している際にうんざりしてしまうのでしょうか。

第一に、やるべきことが多すぎるからだと思います。

そして、そのやるべきことの量に圧倒されて、その対応するべき順序もわからなくなってしまうからだと思います。

仕事の内容が多種多様になり、複雑化しすぎて、それらを整理することができなくなっている。

その結果、努力や根性でむやみやたらと働き続けることになり、長時間労働や時間外労働につながってしまう。

もちろん、そもそも労働の意味(目的)を理解しておらず、ただの作業と化しているという場合もあるのでしょう。

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その過労状態を規制しようと動いているのが、いまの国家や公的機関。

この流れは、「公園の規制」によく似ているなあと思うのです。

たとえば、公園内でのボール遊びや花火は、子供が怪我してしまう危険性がある。

また、公園近くに住む隣人とのトラブルも起きやすい。

だから、どんどん公園内での禁止項目が増えていく、それが現代の公園です。

しかし、冷静に考えれば、怪我のリスクや隣人への配慮を正しく理解してもらった上で、子どもが公園内で自由に遊べるようになったほうが、彼らの発育にとって良い方向につながることは間違いない。

でも、それは個別具体的に対応が必要な事象となり、大人(公的機関)が管理しきれない事柄だから、一律禁止となってしまう。

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これと似たような現象が、現代の「働く」においても存在するなあと思うのです。

資本主義経済のもとで働いていると、常に発展成長が求められ、必ずいつかは天井にぶち当たり、そこでうんざりしたり、絶望したりしてしまう。

その結果、それがストレスにつながって、労働者は病気になったり、最悪の場合は死に至る。

だからこそ、なるべくその原因となるような労働内容や労働時間を規制し、軽減しようという方向に向かってしまう。

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でも、その先に待っているのは、圧倒的な退屈でしょう。

生きる上で本当の喜びは、働くの中での「うんざり」と「絶望」を上手く避けたその先にある。

マルクスが「労働の疎外」という言葉で主張するように、本来労働とは人間に喜びをもたらすものであるはずです。

しかし、それが資本主義の下では、労働力が資本家により取引の対象として商品化されてしまっている。

だから「労働者は搾取され、労働は苦役と化している」のだと。

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だとすれば、本当の目的は、その苦役化させている部分を取り除いていくことにあるはず。

もちろん、世界や国家規模で経済や社会の仕組みを変革していくことは急務でしょう。

でもその一方で、その世間の大きな流れに騙されて「働かないことこそが、喜びであり幸せだ」と勘違いしてしまうと、公園に行かずに家に引きこもってゲームだけをしている子供のようになってしまう。

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本当に必要なことは、「働く」の中でうんざりしないこと、絶望しないためにはどうすれば良いのかをひとりひとりが考え実践すること。

それは、ツールの活用やスキルの向上、生活習慣の改善で対応可能な部分も非常に多いかと思います。

そうやって、うんざりと絶望のタネを一つずつ丁寧に取り除いていくことこそが、社会や国家の変革だけに頼らず、ひとりひとりの力で今すぐ始められる変革だと僕は思います。

逆に言えば、これに気づけたひとりひとりの変化の先にしか、本当の意味での「持続可能な社会」は広がっていないのだろうなあと思います。過去の「手仕事」もそうであったように。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけになったら幸いです。


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