最近、寝る前に心理学者・河合隼雄さんの『カウンセリングを語る』(角川ソフィア文庫版)を淡々と読み続けています。

この本は、もともと上下巻あった本が1冊にまとまったもの。だから結構分量もある。

内容は、講演録をまとめたようなもの。ちょうど1章ごとが、ひとつの講演録になっていて、寝る前に読むのにものすごくちょうどいい。ありがたいお話を聞きながら、1日を丁寧に振り返ることができる、そんな感じの本なんですよね。

ーーー

で、最初から少し余談なんですが、僕は河合隼雄さんの生き様って、「語る」「祈る」「生きる」の三分類のうちで「生きる」のひとだなあと思う。

この三分類というのは、僧侶のプラユキ・ナラテボーさんがTwitter上で以下のようにつぶやいていた内容を参考にしていて、プラユキさんは以下のように書かれていました。


まさに河合隼雄さんは、このなかの「生きる」を実践していた方なんだろうなあと思わされるわけです。

で、だからこそ、光と影、そのどちらも理解されていて理論だけを勉強していると必ず見落としてしまいそうな話も同時に丁寧に語ってくれる。

それは、机上の空論ではなく実践の中で得られる叡智のようなもの。

これは文章にすると逆になんだか矛盾してしまったり、論理が破綻していたりするように見える部分も間違いなくあるんだけれども、それがむしろ現実に近いなと僕なんかは思ってしまいます。

だから、僕は河合隼雄さんの話を読んでいると、ついつい引け目を感じる瞬間がある。

そして、現代で言うと、抱樸の奥田知志さんのお話なんかも聞いていて、そう感じる瞬間があります。

ーーー

なにはともあれ、この「生きる」を実践されている方々の視点というのは、いま本当に大事だなあと思うわけです。

「生きる」ことは、様々な困難が伴うし、そこから得られた知見をある程度抽象化し、コンテンツにすると、現実に向き合わなくて済んでしまう。

みんなそんな観念の世界に生きたいと願っているから、です。

そのようなコンテンツほど人々からは「リアリティ(つまり真善美)」があると思って、拍手喝采で受け止められてしまいがちなんですよね。

でもそれは、本当の「生きる」ではないんだろうなあと。

ひとは、どうしても、「生きる」を遠ざけてしまいがちなんです。そんな中、カウンセラー経験が長い方が「あるがままの現実」を眺めて語ってくれるひとは必ず必要で、そこに我々の「人生」みたいなものが問われている部分は間違いなくあるなあと思っています。(なかなかに、これは伝えるのがむずかしい話ではありますが…)

ーーー

で、ここでやっと本題に戻ってきて、今日ご紹介したい話はこの本の「宗教との接点」という章にかかれてあった内容になります。

この中でも、具体的に、実際にカウンセリングしたことがあるような事例を交えながらお話されている。

ここで例として挙げれれていたのは、嫁が全く手に負えなくて、それに苦労しているという姑さんの話です。

嫁の嫌なところ、悪口を散々カウンセリングの中で語るのだけれど、それをずっと聞いている中で河合隼雄さんは、その相談者に対して語ったのは、「それは牛に引かれて善光寺参りみたいなものですよ」と。

その意味するところは、その嫁があなたにとって牛であり、気づけば善光寺、つまり「宗教の道」に入っていくことにもつながっていく。

なぜなら、必ず人間は「何か」に賭けなければいけないときが、やってくるから。

河合隼雄さんは、ひとは誰かに苦しめられて、「なぜ私だけ」と問うのだけれども、そのような「なぜ」というのは、われわれが生きているという根本に関係するような「なぜ」であって、それに対しては、科学は答えが得られるわけではないといいます。

それはなにも科学が悪いんじゃなくて、そういう科学的な説明のほかに、もう一つの説明がほしいものなんだ、と。これは言われてみると本当にそうですよね。

進化論的には〜とか、ホルモンバランスがどうのこうのとか、どれだけ科学的に何かを説明されても、やっぱりひとは科学以外の何かに賭ける瞬間が、必ずやってくる。

それが親鸞の『歎異抄』のようなものである人もいれば、キリスト教の『聖書』のようなひともいるし、本当に賭けるものは様々なんだけれども、各人が善光寺に通じる道を歩いているという話が語られてあって、それは本当にそのとおりだなと。

ーーー

ただし、そのときに「だいたいみんな善光寺参りはしんどくて、脇道に行きたがるんです」とも書かれていました。

その脇道を行くための、「何かよい方法はありませんか」とカウンセラーに聴くんだけれど、そのときにだいたい「ありません」と非常にはっきり答えるんだ、と。

つまり、「この道を行きなさい」ということを言うらしいです。「この道というのはいちばん苦しい道です、ただし、私も一緒に行きますから」というのが、カウンセラーの仕事なんです、と書かれていて、あーこれは本当に素晴らしい話だなあと思いました。

このカウンセラー的な立ち位置として関わり合うような関係性が、今明らかに世の中には欠如しているように思います。

ーーー

ただ、そのときに、目の前の人が一体何に賭けるかはわからないですよね。

仏教やキリスト教ではなく、いわゆる「新興宗教」のようなものにハマっていくひとたちもいる。今だったら陰謀論のようなものもそうだと思います。

この時に、一体なんて声がけをするのか。

この問いって、意外とむずかしいと思いませんか。

だって、ここは「賭け」の話なんですから。

河合隼雄さんも、「そんなあほなことやめときなさい。それはウソです」というのは簡単だけれども「なぜそれがウソだとわかりますか」と書かれていました。

「なぜ南無阿弥陀仏のほうが確かで、何でこの石がにせものか。本物とにせものを見分けるほど、私はすごいのか」と、これも本当にそのとおりだと思います。

新興宗教は、あたかも簡単に否定できるように思って疑わないのだけれども、ヤバいからヤバい、ぐらいにしかみんな思っていない。

科学的、合理的に説明できないからこその宗教であって、原理的においては、そのわからなさ(答えのなさ)においては、すべからくどの宗教も等しいわけです。

ーーー

で、こんなとき、河合隼雄さんならどうするんだろうか?と本当に強い興味をもって、僕はこの本を読み進めていました。

結論から言うと、「ついていくことができません」と語るのだそうです。

この答えに対して、僕は衝撃を受けたんですよね。

少し本書からそのまま引用してみますね。

ところが(相談者の話を)聞いていて、どう考えてもついていきにくいのがありますね。私は、だからそういう場合に、それが本物であるとか、にせものであるとか、間違っているとか、そういうふうには決して言いません。言えることは、「私はどう考えてもあなたのお考えについていくことができません」。それがほんとうでしょうね。
「ついていくことができません」と言っているのは、あんたが間違っていると言っているのではないんです。

ひょっとしたら、その人にとってそれは意味を持つかもしれない。これはもうわからないんです。しかし私という人間は、どうしてももうあなたのそれにはついていけません。だからあなたとしては、私と一緒にやろうとする限り、そちらとは縁を切って私とやるか、あるいは二百万円で石を買うほうに賭けてしまうんだったら、私のとこをやめてもらうか。賭けですから、どちらに賭けるかです。


この答えに、僕は衝撃を受けました。

本当にそうだなあと。そしてこれが一番大切なスタンスではないかと思ったんです。

はっきりとついていけないから、こっちを取るか、そっちを取るかの二択だと。どちらかを選んで欲しいと、誠実に伝えること。

そのうえで、もちろん実際にこちら側を切り捨てて新興宗教のほうを選んでしまう人もいるのだそう。でも、そんなときこそ「じゃあそっちに行ってください。それでも帰りたくなったら帰ってきてください」同時に伝えておくのだそうです。

人は、自分で実際にやってみないとわからないこともあるから。でも、やってみてはじめて違うと気づくこともあるはずです。その時に、そのひとが行場を失ってしまわないように、あらかじめ帰って来る場所を開いておくこと。

そうすると、実際に戻って来る人もいるそうです。

ーーー

うまくいえないけれど、これが本当の「優しさ」だなあと僕は思ったんですよね。とても重要なスタンスであり、心がけだと感じました。

人間関係において、完全に縁を切ってしまって、相手を孤立させてしまうわけでもなく、相手の主体性を完全に奪って「そんなバカなことはやめろ!」と無理やり説得するわけでもない。

そして何より、そういった新興宗教やスピ系、陰謀論などを信じる相手に対して常に関心を払い続けることも自分自身が一番疲弊してしまう。

ついていけないときには、やっぱりきちんと断ち切る勇気も同時に大切であって。

でも、そのときに、どこか帰ることのできる余白を残しておくことも、本当に大切な話だなあと思ったんです。

ーーー

もちろん、今日の話は、宗教に限らないと思っています。だからこそ、この場でもご紹介しています。

普段の日常的な友人やパートナーの関係性においてもそうですし、他にもビジネスでも働き方でも、そう。

漠然と生きていると一番困ってしまいそうな場面における素晴らしい対峙の仕方だなあと思ったので、今日のブログの中でもご紹介してみました。

ただ、だからといってこの助言が必ずしも正解な訳ではないことだけはくれぐれも誤解しないでいただきたいです。

個別具体的な事象ごとにおいて、その答えは百人百通りある。

というか、そのカウンセリングにおける1回性の妙みたないことを、ひたすらに語ってくれている本が本書でもあります。「正解」っぽいものに安易に溺れるな、と。

そういう意味でも、気になる方はぜひとも本書を手にとってみてください。本当に素晴らしい書籍でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。