最近よく語られているweb3時代の話で「これからはフォロワーを増やすよりも、ステークホルダーを増やすことが大事」というお話。

これは、僕も本当にそう思います。そして大きな時代の変化として、とっても大切な視点だと思っています。

プラットフォームに依存してしまうようなフォロー・フォロワーの関係性はもう完全に終焉を迎えたと言っても過言ではないかもしれませんね。

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ただ、そんなフォロワーの対局にあるようなステークホルダーとしてのつながりを「強いつながり」のように表現するかどうかに関しては、ちょっとだけ違和感もあるなあと。

たしかにそうやって「価値」でつながり、NFTプロジェクトやFiNANCiEプロジェクトとトークンを購入することで一蓮托生のような状態になることは、SNSでのフォロー・フォロワーの関係に比べて「強いつながり」に見えなくもないのだけれども、むしろ「弱いつながり」が途切れないという表現もできるような気がしていて、その両方において、非常に優れているなあと思っています。

そして、弱いつながりを持ち続けられることがフォロワーからステークホルダーに変化していくことの一番の価値ではないかと、個人的には思っています。

一見すると、変な話に感じてしまうかも知れないのですが、今日はそんなちょっと変わった私見について少しだけ述べてみたいなと思います。

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さて、きっとこの話というのは、オンラインサロンのような取り組みの「弱点」から考えてみるととわかりやすいかと思います。

オンラインサロンは主催者側からすると、どうにか高い熱量を保ち続けたいと願ってしまいがちです。当然ですよね、既存メンバーの離脱を防ぎたいわけですから。

でも、実はコミュニティにおいて、それは意外と逆効果だったりします。熱量が高まりすぎると、それを維持継続するのは至難の業だからです。

いわゆる「熱狂」のようなものを常時つ作り出し続けないといけなくなる。それは必ず「熱狂疲れ」のようなものを起こしてしまいます。

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これは先日、ファンベースを提唱されたさとなおさんが、「キャンプファイヤーよりも、焚き火をつくることのほうが大事」という表現で語られていましたが、本当に上手な喩えだなあと思います。

確かにキャンプファイヤーぐらいの熱量が、わかりやすくサロンとしての盛り上がりを生み出すことはできるのだけれど、コミュニティの熱量として本当の意味でちょうどいいのは、むしろ焚き火のほう。

つまり、あまりに「濃すぎるつながり」というのは、強い半面、非常に脆いというか、一過性であり、かなり早いタイミングで燃え尽きてしまう可能性を秘めてしまっているわけですよね。

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で、ここで問題になってくるのは、むしろ継続可能性のほう。

無理やりアテンションを獲得し続けようとして、キャンプファイヤーを焚き続けることは、どう考えても不可能なわけです。

なによりも、それをしてしまうと、主催者側も参加者も疲弊する。ハレとケで言う、ハレ、つまり非日常を継続し続けないといけないわけですから。

それよりも、僕が本当に大事だなあと思うのは、ケの日常は淡々と焚き火をしつつ、大きな波が起こるたびに、同じ場所に集えることなんじゃないのかなあと。

そして、そこでちゃんと大きなイベントや祭りが定期的に開催されること。

で、NFTを含めたトークンのすごさというのは、そのトークン自体がそのようなお祭りの開催におけるお便りや招待状、インビテーションのような役割になるわけです。

じやあ、それは一体どうやって?

わかりやすく価値が膨らんで、です。

ここが今日一番強く強調したいポイントです。

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つまりトークンの価値、その数字が大きくなる形でトレンドがやってきて、しばらくはモメンタムが続きますよ、と目に見える合図として、ステークホルダーたちに伝えてくれる役割をトークンが行ってくれるわけです。

これは比喩だけにとどまらず、大体どんなトレード系のアプリも、まさにこれが青と赤で示されていますよね。

つまり青は集合の合図なわけです。なんだなんだ?とステークホルダーのひとたちがワラワラと再び集まってくる。

で、「なるほど、次はそんな祭りが始まるわけですね。だったら自分たちは、こんなことでお手伝いをすることができそうです!」とつながっていくわけです。

地味にこっちなんじゃないかと思います、トークン革命が及ぼす大きな変化とは。

ちなみに、ここではあえてネットスラング的な意味での「祭り」と表現をしています。

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で、これは何も理想論としての話ではなく、自分自身の経験として、この1年で強く実感した話でもあるんですよね。

僕は、第1次NFTブームがしばらく下火になってから、半年程度はNFTに関する情報は自分からはほとんど発信していませんでした。

それは、自分がNFTの発行主体ではなかったからです。あくまでファウンダー側ではなく、ステークホルダー側としてNFTを楽しんでいた立場。

もちろん、何が起きているのかは、横目でずっと観測はし続けていましたが、その間に「強いつながり」を継続していたかと言えば、決してそうではない。

もちろん、そのあいだも、主要プロジェクトのファウンダーや運営メンバーの方々や、そして中心に近い主要メンバーの方々の活動継続があったからこそ、続いてくれていたのだと思います。そこには本当に、心から強い敬意を表したいです。本当にありがとうございます、という気持ちです。

で、みなさんおの努力によって、こうやって第二次ブームの兆しが見えてきて、つまり「祭り」が起ころうとしていて、そこでまた再び、既にステークホルダーのひとたちがワラワラと集まってこれるわけですよね。

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これがもし、トークンが存在しなかったら一体どうなるでしょうか。

このようなことは絶対に起きないと思うんですよね。つまり途中離脱が許されない。

たとえば、これもまたオンラインサロンの運営のむずかしさの方向から考えるときっとわかりやすいかと思います。

一度退会をしたオンラインサロンは、また中央において焚き火からキャンプファイヤーに変わるタイミングになったとしても、一度退会したひとがそこに参加することはあまりない。

自らが参加する依代がないと言ってもいいかもしれません。

もちろん、どれだけ運営側が開かれていてウェルカムな状態だったとしても、本人の意識として、自分のことを自分で「私は一度離れた人間だ」と思いこんでしまう。

だから出戻り組というのは相当肝っ玉が強くないと、シレッと戻って来ることはできないわけです。もちろん、オンラインサロンに限らず、会社の転職なんてさらにその最たるところですよね。

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でも、これが、NFTやトークンの場合だと、まったく違うんですよね。

初期セールスで手に入れたという形でガチホして売らずに持ち続けていたという場合においては、何度でも「出戻り」が可能となる。この違いが地味にめちゃくちゃ大きいなと。

人生というのは、本当に思わぬところでぞ、れぞれの道へと分岐していく。そしてその先に、各人それぞれをの忙しさが存在し、ずっと同じ対象やコミュニティ活動を同じ熱量で続けることは、なかなかに困難です。

同期し続けるためには、無理やり同じオフィスの中で働いているとか、同じローカルの集落の中で住み続けているとか、そのような物理空間の成約を、必ず必要とする。

そうじゃないと、必ずそのうちに自然消滅のような形を辿るわけです。

この点、よく語られる「おとなになっても、ずっと友達と一緒にいるためには、その一緒にいるための口実として『仕事』をしなくちゃいけない」っていうのは、本当にそのとおりで。

ただ、そうやって本当に仲の良いメンバーで仕事を続けることができるのは、本当に一握りの人たちだけです。

でも、いまトークンの登場によって、ずっといっしょに居続けられるわけではないですが、然るべきタイミングで、然るべき人々と一緒に、然るべき楽しさを享受することができるようになったんだと思います。

まさに、このような「弱いつながり」を継続しつながり続けられる、それこそが今起きている変革だと僕は思います。

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きっと今回もまた半年〜1年程度で一旦、今の熱狂は徐々におさまっていくはず。

そしたら、またしばらくは凪のフェーズがやってきて各人がそれぞれにバラバラな活動や人生に戻るはずです。

でも、こうやってトークンでつながっておくことにより、次の波やトレンドが起きた際には、またその「弱いのつながり」を頼りにして、それぞれが途中セーブしたタイミングから始められる。

喩えると、蔵に眠っている山車が季節が巡ってまた動き出すようなイメージです。そして、途中セーブ状態だったわけだから、前回の反省も活かすことができる。

それは以下の記事で書いたとおりです。


これは、まさに夏フェスとかもそうじゃないですか。去年の思い出を頼りに、何度も何度も繰り返し人々が懐かしむように訪れながら、少しずつ年を重ねるごとに拡大していく。

年々、新規の方々も、その評判を聞きつけてやってくるわけですから。

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これが今起きていることであって、地味にとっても大事な変化なんじゃないかと思います。

地元を離れているひとにとって、「地元」は常に気を配り続けている対象ではないと思います。

でも、地元は自分にとってかけがえのない場所で、盆正月などの祭り時期をを契機にして、帰る場所でもあるっていうひとはきっと多いかと思います。

そのようなつながりを、まったく縁もゆかりも無い対象に対して、トークンという仕組みが紡ぎ出してくれると考えるとわかりやすくなるかもしれません。

アドホックな連帯ではなく、弱くて緩やかだけれども、まちがいなくそれは継続的な連帯であり、「タテの共同体」となる。


少なくとも、僕はそう思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が参考となっていたら幸いです。