「複雑なことを、複雑なまま伝える」

「複雑なことを、わかりやすく単純化して伝える」

これらは一見すると矛盾すると感じるかもしれないけれど、実際のところは矛盾しない。どちらも大切な伝え方だと僕は思います。

ただし、大前提として、これが同時に存在できるのは、発信者側の「動機が善」であることです。

向かう先が相手のためになると皆が信じているからこそ、成立できる話だと思います。

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しかし現代は、自己の私利私欲のために、複雑なことを単純化するひとたちがあまりに多すぎる。

しかも、明確に誤解を生むとわかっていながらも、わざと意図的に単純化していたりするから厄介です。

少しぐらい勘違いされたって構わない、それよりも自分のフォロワー数や影響力、売上が伸びることのほうが重要だ、と。

単純化して相手が勘違いしたら、勘違いした相手のほうが悪い。それは「自己責任」だと見放してしまう。

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これは、現代の食品の世界に置き換えてみればわかりやすいかと思います。

戦後復興期に立ち上がった食品会社は、「人々を飢餓から救いたい」という共通の目的があったはずです。

その中で、多少栄養価が偏っていたとしても、お腹を空かして辛い思いをするぐらいだったら、いつでも簡単に食べられる即席麺のようなものがあったほうがいいよね、と。

しかし今はもう、そのような「飢餓を救いたい」という願望ではなくなってしまった。

むしろ、栄養価をより一層偏らせたって構わないから、さらに中毒化するような食品を作り出そうとしてしまっている。

そうやって自分たちの会社の売上が伸びることの方を最優先してしまう。

その食品を毎日食べたり飲んだりしてくれたお客様が、身体を壊してしまったとしても、毎日食べるほうが悪いのだと居直る始末です。

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「嘘も方便」という言葉の真意は、連れていきたい先が明確にあるからこそ、許される側面が間違いなくあるのだと思います。

目の前の相手の置かれている状態に合わせて、目的地までの最適な経路を指し示す。

そのためには、少し道から逸れたほうが逆に目的地まで導きやすいこともあるだろうから、嘘も方便なんだと。

昔のひとは、そうやって本当に心の底から導きたいと願った場所があったから「単純化」も許容していたわけですよね。

ただ、残念ながら現代はそうじゃない。ゆえに僕らはもう自己防衛をしていくしかありません。

目の前のひとがわかりやすい話をしてくれている時ほど、注意して耳を傾ける必要がある。このひとは一体何のために、こんなにわかりやすく説明してくれているのだろうと。

もしそれが己の保身のためだったら、すぐに聞くのはやめて複雑なことを複雑なまま話してくれているひとの話に耳を傾けたほうが良い。

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つまり、価値の序列としては、

「動機が善+わかりやすい話」>「動機が善+複雑な話」>>>「動機が私欲+わかりやすい話」

一方で、いま発信者側に求められていることは、動機は善のまま、少しでもわかりやすく相手の視点に立った発信を心がけること。

「良いことを言っているんだから、多少のわかりにくさを許せ!」と思ってしまっているひともあまりに多すぎるように思う。

もちろん僕自身も、そのような「動機は善だから、多少のわかりにくさも許容してくれ」という甘えがでてしまうときは頻繁にあるから、自戒を込めて書いています。

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受信者に求められている態度は、複雑なことを複雑なまま理解できる「素養」と「胆力」をできる限り自らの努力で身につけていくこと。

せめて、相手の動機を見定めるだけの力は養っていきたい。

そして発信者は、上述したようにはできる限り相手の視点に立ち、寄り添うこと。どちらも歩み寄って初めて、本当に得たい情報を得られる関係性を築けるようになるはずだと思うから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。