昨夜、Wasei Salon内で定期的に開催されている「読書会イベント」が行われました。
課題図書は『嫌われる勇気』。
https://audiobook.jp/product/174867
ものすごく充実した内容となり、サロンメンバーのみなさんには、ぜひともアーカイブを観て欲しいなあと思います。
今日は、読書会イベントの中でも議論になった「他者を褒めるべきか否か?」の話題について、このブログにも持論を書いてみたいと思います。
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この点、対局にある主張が、デール・カーネギーの名著『人を動かす』の中に書かれている「積極的に人を褒めろ」という話。
今も本屋さんで燦然(さんぜん)と輝くベストセラー本の2冊が、全く逆のことを主張しているため、読者が混乱するのも当たりまえです。
だからこそ、数多くの議論も巻き起こる。
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僕がここで考えるべきだと思うことは、「他者を褒めるか否か?」は手段の議論でしかないということ。
そもそもこの両者の主張は、その目的が大きく異なります。
カーネギーの話は成功哲学で、その目的は、この資本主義社会の中で成功すること。それが人間の幸せにつながると信じている。
アドラーの話は心理学で、その目的は、貢献感を"勝手に"感じること。それが人間の幸せにつながると信じている。
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つまり、いま自分が褒めようとしている目の前の相手と、どんな関係性を築きたいのか?
相手が自己の成功に向けて思い通りに動いてくれることが目的で、もっと端的にいえば、その結果として達成感や社会的な成功を手に入れたいのか。
それとも、他者や共同体に貢献したいのか、言い換えると、他者を「勇気づけ」した結果として相手がより自由に振る舞える様子から、勝手に貢献感を感じたいのか。
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両者の主張は、それぞれの目的を実現させるための一つの手段として主張されているわけです。
決して矛盾する話ではありません。
つまり、僕らが本当に議論するべきは、褒めるか否かではなく、
人生の目的として「成功哲学を選ぶか、貢献感を選ぶのか」どちらを選択するのかという議論です。
もちろん、ここには絶対的な正解など存在しません。
自己がどうありたいのか、その一点です。
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僕の場合、これまで古今東西さまざまな書籍を読んできて、多種多様な「幸せの定義」に触れてきた中で、
アドラーが主張する「勝手に貢献感を感じること」以上に最適な暫定解が現状は見つかっていません。
だからこそ僕は、今はこの考え方にしたがって生きています。
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そして、そのための実験(実現)する場が、まさにこのWasei Salonだったりします。
今の資本主義社会、競争社会の中では、アドラーが提唱するような世界観を実現することは正直むずかしい。(いわゆる「共同体感覚」を得ること)
それを、小さな集団内だとしても、疑似体験できる場としてこの空間を耕していきたいなと本気で思っています。
いつも、このブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話しが何かしらの参考となったら幸いです。
ーーイベント告知ーー
3月に開催されるWasei Salonの外部向けイベント兼サロン説明会はこちら。
https://twitter.com/WaseiSalon/status/1366266281935052800?s=20