Wasei Salonのなかでも話題にあがらない日はないくらい、世間で大きく話題になってきているAIの大きな波。
コミュニティマネージャーである若月さんの何気ないつぶやきをきっかけに、Wasei Salonの中でも、シリーズ「大AI時代、私たちはどう生きるか?」という対話会を連続企画で定期的に開催していくことになりました。
https://wasei.salon/events/04122dca752b
今日は、この企画に込めていきたいと考えている想い、そしてなぜ今このような取り組みが必要だと僕自身が考えているのかについて、このブログに丁寧に書いてみたいなあと思います。
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この点、まずは僕が若かりし頃の苦い思い出話から始めてみたい。
僕がまだ大学生だったころ、ちょうど今みたいな雰囲気でスマホやタブレット端末がこれから世界に普及していくと騒がれていた2010年に、宮崎駿さんがiPadを触っている人間をズタボロに批判している記事がネット上でものすごく大きくバズりました。
今でも「宮崎駿 iPad」で検索をすると一番最初にその記事が出てきます。
スマホやタブレット端末が世界を変えると言われていて、自分自身もその可能性に熱狂していた側だったので、尊敬する宮崎駿さんがそのような形で批判することに、学生時代の僕にとっては、結構純粋な衝撃だったんですよね。
もちろん、今この年になれば、そのような発言を宮崎駿さんがすること自体には何も違和感は感じないですし、むしろものすごく納得感のある発言だなあとも思います。
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で、実際に世の中はどうなったのかといえば、多くの人は、宮崎駿さんが間違っていて、世界中にスマホとタブレットが行き渡っただろうと思うはずなんです。
でも、僕はそうじゃないと感じます。どっちも正解だった、がきっと正しいと思います。
いや、これだけスマホとタブレット端末が普及しているのだから、それはおかしいと思われてしまうかもしれないですが、とはいえ、やっぱりそこで明らかな問題も生じてしまっているのだから、宮崎駿さんが警鐘を鳴らしてくれたこと自体も、何一つ間違っていなかったわけですよね。
実際問題として映画『君たちはどう生きるか』も手書きで描かれていて、そんな作品がディズニー作品をことごとく追い抜いて、国内に限らず、世界中で評価されているような現実なわけです。
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じゃあ、あのときに大切だったこと、僕自身が本当に向き合うべきことはなんだったのか。
「スティーブ・ジョブズと宮崎駿の発言、そのどちらの声が正しいのか」と右往左往してしまうことではなくて、ちゃんと自分の中での納得感を生み出し、答えがわからない中でも、それでも何かに自らの魂を受け渡すことなく、自分の歩みをしっかりと進めることだったんだと思うのです。
言い換えると、答えを外部に求めるのではなく、自己の内側に対して求めること。
そのためには逆説的で矛盾すると思われるかもしれないのですが、他者と対話することが本当に大事だったのだと思います。
もちろん、その結果として導かれるその選択肢や決断というのは、人それぞれです。
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当時、僕が新卒で入った会社の北京にあったITベンチャーの社長は、そんな僕の話にとても真摯に耳を傾けてくれたんですよね。
それが本当に心から救われるような出来事でした。
あのときに、どっちの意見が正しいのかばかりに右往左往してばかりいて、外側に答えや正解らしきものを探していたら、今の僕は間違いなく存在しなかった。
具体的には、自分の会社を起業して、自分たちのメディアを立ち上げて、そこで出会った仲間たちで集まって、そこから自分たちのオンラインコミュニティを立ち上げるという行動ということは、決して行っていなかったと思います。
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この体験を通して今強く思うことは、だったら今必要なものは、AIが出てきた時代において、根本的に自らの働き方を問い直すこと、だと思うんですよね。
それは、AI肯定派の意見に流されてしまうわけではなく、AI否定派の意見に安易に同調してしまうわけでもなく、そもそもの根本的な部分から、私にとっての「はたらく」を見直すようなイメージで。
どちらかを煽り立てることではなく、似たような葛藤や悩みを持つ者同士が静かに集まって、それぞれの考えに対して耳を傾け合い、その対話体験を通して一人ひとりが、どのような態度で生きていくのかを真剣に考えてみること。
それは他者との対話のなかで、相手の意見に耳を澄ませて、自らの意見も真摯に場に提供することで、自然と引き出される形において、私の中に形成されるものだと思うからです。
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繰り返しますが、もし仮にあのときにあの人の意見を鵜呑みにしてしまってどっちに転んでいても、僕はきっと大きく後悔していたと思います。
それはどっちに転んで”失敗していても”という意味じゃないですよ。
たとえどっちに転んで”大成功していても”、むしろ成功したほうがより一層、虚無感みたいなものに苛まれてしまっていただろうなと思います。
村上春樹さんの小説の中に出てくる、社会的にはきちんと成功し、自分が望んでいたものは何もかもが思い通りに手に入り、それでも心だけが空っぽだったみたいな主人公は、それを象徴しているなあといつも思わされます。
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そうならないためにも、盲目的になるわけでもなく、ちゃんと自らの井戸を掘っていくことだと思います。
「そんな悠長なことは言っていられない、スピードが遅い、乗り遅れてしまう!」と思う人には、Wasei Salonは完全に不向きな場所です。
別に僕らはスマホやAIの波に乗るために生まれてきたわけじゃない。
それよりも、もっと根本的にある、私が生まれた意味や、その幸福の意味を丁寧に見出すこと。
ヴィクトール・フランクルではないですが、私が人生に何を望むかではなく、人生から、何が問われているかを知りたいと願っているはずなんですよね、本来は。
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それを一人ひとりが真剣に自分の立場、自分という人間の使命において考えられる場を、僕は提供したいとずっと変わらずに思いつづけています。
そのために、みなさんに思う存分。このコミュニティを活用していただきたいんですよね。そのためのサポートであれば、何でもしたいと僕は思っています。
Wasei Salonは、そうやってこれまでずっとそのような個々人のそれぞれの問いを重視する対話型を重視したコミュニティを運営してきました。
そして、今回のAIの登場によって、今までもより一層アイデンティティ・クライシスのようなものに陥ってしまい、このような場を必要とする人は格段に増えてくると思っています。
日々、役に立ちそうでまったく中身がない情報は、どこでも無限に流れてくるけれど、真剣に考えて対話したい者同士が集い「果たしてこれからどうやって生きていくか」を考える場というのはなかなか存在しない。
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繰り返しますが「答えがないんだから、とりあえず波が来ているうちは突っ走れ!乗り遅れるな!考えるのはあとからでも遅くないんだ!」というスタンスもひとつの正解だとは思うけれど、
僕らは、そうやって答えがないときにこそ、それぞれの「問い」を重視し、考える方向性を重視していきたい。
とはいえ、いわゆる人文系の人々にありがちな、その場に立ち止まってしまうことも違うと思う。
あくまで僕らは、社会の中で今日も日々常に生き続けているわけですから。社会の中で生きることを、スポイルしてはいけないと思うからです。
大切なことは、「走りながら考える」こと。ジブリの主人公たちのような、真摯に生きていく姿勢を大事にしていきたい。
そのような「生きる」スタンスが好きなひとたちが、集ってくれている場をこれからも淡々と構築していきたいなあと思っています。
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「あのひとがAIで結果を出しているから私もやらなきゃ!追いつけ追い越せ!」ではなく、「あのひとも、真摯に取り組んでいるから、私も頑張ろう」と素直に思えること。
その力強いそれぞれの意志や決意みたいなものを形成できる場所として。
それはきっとFOMOにはならないと思っています。
もっと静かに、でも、ものすごく力強く、本質的に励まし合えるものだと僕は思う。
誰にも答えがわからない時代だからこそ、このような場をこれからもせっせと淡々とつくっていきたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/06/30 10:49