昨日、こんなツイートをしてみました。
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「じゃあ、自分らしく生きよう!」と思い立ち、「自分らしさとは何か?」と自己分析などをして、深掘りし始めると、泥沼化していく…。
ここに、大きな罠が潜んでいるのだと思います。
きっと、「自分らしさ」なんてものは、存在しなくてもともと。
逆に「自分らしさ」が自分の未だ気づかぬところに存在するのだと盲信し、それを発見しようと必死になればなるほど、苦しくなってしまうでしょう。
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思うに、「自分」という存在は、自分以外の他の存在との「関係性」の中でしか生まれてこない。
ひとりでに成立している人間なんて、あり得ません。
必ず、何かとの関係の中で自己が規定されていますよね。
いま自分が持ち合わせている知識や性格もすべて、親に始まり、これまで出会ってきた他者との「関係性」の中で獲得してきたもの。
極端な話、自分自身の体だってそうです。
日々、自分が口にしている食材との関係性のなかで、自己の身体が自然と規定されていく。それも自分が意識することなく、無意識のうちに、です。
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冒頭の例で言えば、花も柳も、必ず最初は小さなタネでしかありません。
しかひ、植えられた場所の土や水、光との関係性のなかで、徐々に自己が規定されていく。
花は全力で花になろうとして、柳も全力で柳になろうとする。他の存在には目もくれません。
それぞれの関係性のなかで、いまの自分が持てる本分を最大限発揮しようとします。
だからこそ、美しく咲き誇ることができる。
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一方で、条件の悪い日陰に植えられてしまって、咲き誇れない花や柳もあるかもしれません。
ただ、それに対して「美しくない」と感じるのも、僕ら人間の勝手な主観です。
花も柳も、決してそんな自分の不幸を嘆き悲しみ、拗ねているわけではないはずです。
自分の植えられた場にある土や水、光との関係性のなかで、100%全力で生命をまっとうしようとしています。
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僕が好きなブッダの言葉に、以下のような言葉があります。
「過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれによく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ。」
今に意識を向けて、目の前に存在するすべての事象に対して、丁寧に、でも淡々と向き合っていく。
そして、なすべきことをなす。
他の存在との関係性のなかで、自分に与えられた命を全うしようすれば、自然と自己の本分が発揮されていくはずですから。
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そうすると不思議なことに、あれだけ「欲しい欲しい」と切望し、喉から手が出るほど探し求めていた「自分らしさ」というものも、自然と手に入るはずです。
そんなことを考える、今日このごろ。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの気づきにつながれば幸いです。