自分の意見を持つことの重要性が頻繁に語られるようになってきました。

現代ほどわかりやすい正解がない世の中は、過去には存在しなかったからだと思います。

たったひとつの正解なんてこの世には存在せず、すべては各人の意見であることがあらわになってきてしまった。

だからこそ、本来は存在しない「正解」を追い求めて、他人の意見に流されてしまわずに、ちゃんと私の意見を持ちなさい、と。

さもなければ、いつまで経っても他人の意見に流される人生を送ることになってしまいますよ、それが彼らの主張です。

それでも自分の意見を明確に主張できないひとは、他人から批判されることを過度に恐れていたり、自らリスクを背負うことを恐れているだけなのだから、まずは勇気を持て、と。

ーーー

しかし、それはヨーロッパやアメリカなど西欧的なの考え方だと僕は思います。

お互いが明確な意見を持ってしまうと、かならず最後には「殺し合い」が始まってしまう。

互いの意見を議論で戦わせていたら、必ず最後はそこに行き着くようになっています。

「戦争」のようなわかりやすい大量殺戮だけでなく、各人が明確な意見を持つゆえに「自己責任」という大義名分によって国家の不作為による殺し合いも、毎年数万人単位で行われています。

それが人類をここまで発展させてきてくれた一神教の強さでもあり、弱さでもあると僕は思うのです。

ーーー

だからこそ、日本人は常に「あわい」を大切にしてきました。お互いに明確な意見を持たずに、そのグラデーションを尊んできた。

なぜなら、極東の島国ゆえに、これ以上流れていく先がないからです。ここで殺し合いをはじめてしまうと、お互いに逃げ場がなくなり、全滅しかねない。

だったら、この島に流されてきてもの同士みんなで一緒に生き残るためには、常に「間を取る、落とし所を探る」しかない。

「中空構造」を良しとして、明確な意見を持つものをトップに配置しない。中心は意図的にあけておいて、そこには「虚」を据えておく。

ーーー

そうやってみんなが明確な意見を持たずに、まるで腸内細菌の日和見菌のように、世界情勢に合わせて、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、突然変わりうる腸内(日本)環境を保持して、今日までなんとか日本という生態系を保ってきた。

意見を持てと主張するひとは、「必ず善玉菌か悪玉菌になれ!」と言っているようなものです。

たしかに、今の世の中で成功するためには、より一層自己の強い意見を持つことは重要性を増してきています。そんな意見を持つ人たちが、大衆を先導しているのだから当然と言えば当然です。

しかし、常に「それは本当か」と徹底的に考え抜くことのほうが僕はよっぽど重要だと思う。

そして、それが一番胆力が求められることでもある。

だからこそ日本では古くから仏教を用いて、正解なんてないどころか、意見だってない、認識だって存在しないと、すべてが「空」であり「縁起」であることを理解することを重視してきた。

ーーー

そのためには、意見を戦わせる「議論」に参加せず、腰を据えてゆっくりとお互いのビジョンを共有する「対話」をすること。

お互いが脳内で描いている「山」自体が、全く異なる姿かたちをしているのだから、それぞれにお互いの山を思い描き、それらを共有するだけに止める。

どの山が一番優れているのかを戦わせるのではなく、参加している人の数だけ山の数は存在することを身を持って、体感するほかない。

ーーー

神様だって、議論の結果、3人ぐらいまで絞られてしまうと、必ずどの神様が一番優れているのかという神学論争に発展してしまいます。

しかし、その神様が文字通り八百万だったら、1人に絞ろうなんて誰も思わない。

何の価値もない、何の役にも立たない、ただそこにいるだけの神様だって同じように認められる。

そして、その存在がいるからこそ、保たれている生態系があるのだと、未来から倒錯的に理解される可能性もある。

ーーー

他者の強い意見に騙されない。

惚れ惚れするような切れ味の良い意見を自らつくりだし、それを背負って現場に戦いに行かない。

そんな議論をしない勇気こそ、いま本当に試されているように思います。