男女問わず、ワンオペという言葉を親御さんの口から聴くたびに、僕は若干の違和感を感じてしまいます。
その言葉の裏に込められた「自分は一切悪くない、理由はどうであれば、手伝わないパートナーが悪い」っていうニュアンスを暗に込められるの、どうなんだ…?と毎回モヤッとしてしまう。
もともと「ワンオペ」という言葉は、深夜バイト問題から端を発している。
具体的には、店舗オーナーや本社から押し付けられた労働搾取、その結果としての被害者意識が醸成される部分に元ネタであり、そこには「自分で引き受けている」という感覚やニュアンスがあまり存在しない。
きっと、僕がモヤッとするのは、この「自分で引き受けていない感じ」なんだと思うんですよね。
暗に「ひとりで面倒を見なくちゃいけない可哀想な状況に、いま追い込まれているんだから察してくれ、私を慮ってくれ」と言われているような気持ちになってしまうのだと思います。
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とはいえ、もちろん大半のひとが、単純に客観的な現状とその事実だけを伝えたくて使っていることも、よくよく知っている。
時代の流行語としてのカタカナ言葉であるというのも、十分に理解しています。
そしてだからこそ、流行語ってむずかしいよね、とも同時に思うのです。
無意識のうちにカンタンに用いることができてしまうから、です。
でも、「今日はワンオペだから嬉しい」という例文は存在せず、あるとしたら「ワンオペでも嬉しい」という使い方になるはずであり、「ワンオペ」という言葉を使った瞬間に、その後に続く言葉は、無意識のうちに「被害者意識」と「搾取構造」を探し出す方向に傾いてしまう。
『嫌われる勇気』の中に出てくる浮気の証拠探しの話とも、とてもよく似ています。
疑いの心を持って状況を見渡せば、たとえどんな状況であっても、必ず相手の浮気の証拠が見つけられてしまう、というあの話です。
目的論的に物事を判断するとは、つまりはそういうことだと思うんですよね。
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そしてきっと「言霊」というのは、こういう比重みたいなもの。
その言葉を使った瞬間に自然と向く(向かされてしまう)方向や、ある一定の方向に対する重心の微細な変化、その重み付けのことを指すんだと思います。
つまり、ひとつの言葉を用いることによって、無意識のうちにそのあとに続く言葉を探し出し、目的論的に原因を捏造してしまう。そんな傾向性こそがまさに「言霊」の正体なんだろうなあと。
言霊というのは「スピリチュアル」でもなんでもなくて、自分の意識でも気づかないような、そんな無意識の重心移動のようなものを指すはず。
それがなんだか幽霊みたいなものによって自らが勝手に導かれているように感じるから、昔の人は「霊」という言葉をつけただけで、「無意識」が発見されたあとの現代では、至極当然の帰結だと思うのです。
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さて、ここでくれぐれも誤解しないでほしいのは、僕は言葉狩りがしたいわけではないということです。
それでも、しんどいときにワンオペって言ってしまう気持ちもとてもよくわかる。
だから「ワンオペという言葉を使うこと自体が良くない!」って安易に批判をしたいわけではありません。
その告発自体は大変素晴らしいのだけれど、そして必ず社会として改善していくべきことでもあるのだけれど、その言葉のもつ重み付けへの自覚も、同時に必要だよね、ということを、ここでは主張したいなと思って、今このブログを書いています。
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そして、基本的にマルクス主義の系譜に連なる思想は、すべてコレ。もちろんフェミニズムなんかもそうだと思います。
そして、繰り返しますが、その告発自体は実際にそのとおりの側面もあるわけだから、何も間違っていないんです。
つまり、幻想でもなんでもなくて、それは確かにそのとおり。
だからこそ、自分がその言葉を使うときには、一度立ち止まって考えてみるという節度も同時に大切だよね、ということでもあります。
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言い換えると、そこで自分自身が本来、苦心惨憺たる気持ちになる必要のないときまで、言霊の重み付けによって勝手に感情が流されてしまうのは、あまりにももったいない。
ひとは無意識のうちに「自分は悪くはない」と思いたい生き物だから。
「可哀想な私、悪いあの人」の構造にしたいからこそ、ワンオペという言葉も自然と流行るし、便利に用いられることにもつながっていく。結果として、社会や世間の共通了解ともなりやすい。
当然、「可哀想な私」でいることは、ある種の甘美な自己憐憫をもたらしてくれるから気持ちが良くて、世間もその言葉を便利に用いるわけですが、それは同時に「自分の人生を、他者に完全に支配されてしまっている」という自己の圧倒的な無力感の証明でもある。
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そして、昨日のブログに書いたように、被害者意識というのは、必ず相手を「加害者」にしてしまうわけです。
「自分が忍耐している側である、ケアしている側である、傾聴している側である」という驕りを、自らにもたらしてしまう。
ちゃんと相手を慮ろうとする尊さゆえに、必ず「これだけ私がやっているのに、でも相手は…」という感情が同時に生まれてきてしまうジレンマがそこにはある。
これはどうあがいても、必ずそうなる宿命にあると思います。
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だから本当に大事なことは、そのことに対して自覚的になること。感じること自体が防げなければ、感じる自分自身に対してその都度自覚的になるほかない。
つまり、自分を「被害者側」「搾取される側」「ケアする側」に置きっぱなしにしないことが、ほんとうに大事なんじゃないかと思うのです。
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僕が元・津田塾大学の教授である三砂ちづるさんのお話が好きな理由も、まさにここにあります。
三砂さんは『心の鎧の下ろし方』という本の中で、以下のような話を書いています。少し本書から引用してみたいと思います。
お金を稼ぐ仕事と、自分の人生をより豊かなものにする学び、は、別のことではない。
自らが学ぶことの先に仕事がある(こともある。ないことも多い)。
自らの学びが金稼ぎの仕事、あるいは「社会に参画する仕事」につながらなかったからといって、それが無駄なのか。学びってそういうものじゃないと思う。
学ぶことによって自らが豊かになり、自らの魂が磨かれる。この世の中の仕組みが見えてくるようになって、自分の周囲の人の心を支えてあげられるようになる。
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そして、ご自身が沖縄の竹富島に移住して暮らすなかで発見された、今の世の中では「社会に参画する仕事」イコール「お金稼ぎ」のことである、というお話を書かれていました。
でも、竹富島の場合は「公」というのは、地域のことである、と。
公民館を中心とした地域のことと、それに伴う祭礼、それが厳然とした「公」なのであって、各自のお金稼ぎは、各自の「私」であると語ります。
島では、その人がどんな「仕事」でお金を稼いでいるかよりも、その人が他者のために親身になれるか、子どもやご先祖や神様を大切にしているか、地域で敬意を持たれているか、そういったことのほうが、圧倒的に重要であるという世界観らしいのです。
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ここで三砂さんが語られていることは、ワンオペ文脈を考える上でも、本当に大事な視点だと思います。
もし、育児や家事を「社会や未来の共同体を維持するための、最も尊い『公』の活動」として捉え直すことができれば、それは単なる「誰からも評価されない『私』的な雑用」ではなくなり、「誇りある献身」へと意味づけ自体を変えることができるはず。
でもどうしても、ワンオペという言葉がひどくつらく響いてしまうのは、それが「一人でやらされている“価値の低いプライベートの雑務”」というニュアンスと結びつきやすいから。
ただ、現代社会の価値観の中では、三砂さんのような考え方は古臭い、封建的、保守的と揶揄し、批判の対象にされてしまうんですよね。
そして、フェミニズムを信奉する人たちからは「男性社会に味方している」ということで、三砂さんのような方は目の敵に合ってしまうのも、残念な事実です。
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でも本当はそうじゃないということが、ここまで丁寧に説明すれば、きっと伝わるはずです。
三砂さんが語られているのは、もっと本質的な共同体感覚と貢献感みたいなお話。
そのなかで、さらにそれ自体が、自己の根源的な喜びにつながることが大切だよね、と言ってくれていると素直に気付けるはずです。
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で、ここまで丁寧に考えたときに初めて僕らは、お互いにその言葉の意味や、置かれている状況を本当の意味で互いにケアし合えるじゃないか、支え合えるんじゃないかと僕は思う。
真の意味で、お互いに歩み寄ることもできるんだと思う。
そのうえで、敬意と配慮と親切心も発揮することもできる。
単なる言葉狩りやフェミニズム批判ではなく、「どうすれば僕たちは、被害者にならずに、健やかに他者のと共に、生活や暮らしを営めるのか」を考えたくて書いていることが、どうにか伝わっていたら、ほんとうに嬉しいです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
