毎年この時期になると、僕は「ガイアの夜明け」を一年分、一気見するのが恒例行事になっています。
昨年も、以下のブログに詳しく書きました。
一年分を年末に一気見することで、その年の「ビジネスの空気感」や「時代のムード」がじわじわと立ち上がってきて、本当におもしろいです。
しかも、その共通点は、おそらく制作サイドも自覚していないもので、一気見するからこそ、観ている側のこちらが勝手に感じ取ってしまう 「時代の傾向」なんだろうなあと思います。
映像の中の当事者たちも、自分たちの特殊性に対してはどこか無自覚で、その無自覚さごと覗き見させてもらえること自体に、僕はすごく価値を感じています。
自分の「労働感」や「仕事観」と、世間のそれとの温度差やズレを自覚するうえで、とても意味のある行為なんですよね。
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で、今年も一年を通して放送されていた気になる特集テーマの「ガイアの夜明け」一気見してみました。
今年の印象は一言でまとめてみると、戦後から平成バブルぐらいまでの遺産と、団塊の世代が生み出したレガシー、その後始末に苦しむ30代〜40代のドキュメンタリー的な内容が、めちゃくちゃ多かったなと思う。
大企業の話でも、ローカルなまちづくりの話でも、構造は同じ。
まさに「火中の栗を拾う」ような役回りを担わされているのが、今の30代〜40代なんだなと。
本来「ガイアの夜明け」と言えば、主に景気の良い話が中心で「どんなビジネスが今注目されているのか」を知ることができる番組だったはずです。
そして今年は、インフレと円安、AIの登場で各業界とても景気が良いのかと思いきや、全然そんなことはなかったです。
むしろ、そんな海外からの外圧による急激な変化によって、いろいろなところにひずみが起きていて、その問題解決に躍起になっている状態が強く明確になっていたなあと思います。
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一方で、それでもなんとか30〜40代くらいの現役世代が会社や街を盛り上げようとすると、上の世代がそれを「くさす」。
そんな構図も、見事なまでに共通していました。
もはや、これはジャンル関係なく、どの業界においても鉄板の流れだったなと思います。
昭和世代は、自分たちがそれをされてきたことをさんざん嫌がってきたくせに、自分たちが同じ立場になると、やっぱりソレをやってしまう。
若い人の威勢の良さや荒削りな活動は、お手並み拝見でいいじゃないかと思うんだけれど、それがむずかしいということも、番組を観てるとなんだか本当によくわかります。
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ここで少し余談ですが、「若さ」や「新しい潮流」をくさす態度って、どこまでいっても、結局は若さへのマウントと嫉妬にしかならないんだなと思います。
どれだけ本人の中では「本心はそうじゃない」としても、どれだけ言葉を尽くして説明しようとしてみても、言葉を重ねれば重ねるほど、周囲からはマウントと嫉妬にしか見えなくなる。
この「構造」を理解しておかないと、本当にいろんなものを犠牲にしてしまう。
言い換えると、若い人や新しい潮流をくさすことは、どれだけ論理的に正しくても、どれだけ“正しい主張”であっても、客観的には「上の世代が下の世代を潰そうとしているようにしか見えない」ということです。
都会でも地方でも、大企業でも中小企業でもまったく同じことが起きている。
それが手に取るように理解できたのは、今年の大きな収穫でした。
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さらに厄介だなと思ったのは、これは若い世代も含めての話なのですが、お互いに「相手のためを思って」「良かれ」と思って語っているからこそ、ねじれがひどくなる、という現象です。
それぞれが対立している時「両者それぞれに自分の信じている正義を実行している」と思われがちなんだけれど、実際にはそうではない。
むしろ、両者ともに、「自分は虐げられる側の被害者である」という自覚をお互いに持ってしまっていることが問題であると、とてもよく理解できる。
若い世代も、自分は上の世代から押し付けられて、虐げられる側だと思っている。
年老いた世代も、どれだけ資産があろうとマジョリティ側であろうと、自分は老い先短くて、社会からもう完全に不要な存在、生産性がゼロの人間として排除される側だと思って被害者ムーブを取ってしまう。
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さらにややこしいのは、両者が同時に「自分は相手の論理や物語を必死に理解しようとしていて、ケアしている側だ」と思い込んでいることです。
言葉にすると、「ケアしているなら良いことじゃないか」と思うかもしれない。
でも、だからこそ逆説的に、相手の目には「ものすごく特権的で、自己中心的に振る舞っている人」に見えてしまうジレンマがそこにあるよなあと思うのです。
ここも非常に目からウロコの点でした。
なぜなら、お互いが「ケアするのは、自分の役目だ」と思っているから。
たとえば、わかりやすい例で言うと、最近あちこちで話題に上がる「道の駅」論争なんかもそうですよね。
賛成派も反対派も、それぞれが「地域のため」「地元のため」と信じて動いているのに、結果として対立が深まってしまう。
両者が被害者同士であり、「ケアしている者同士」であるがゆえの行き違いが発生してしまっている。
ここが一番、どうしようもないくらいにねじれてしまうんだということが、とてもよくわかりました。
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こうやって考えていくと、まだ昔のように、「自分は圧倒的にブルジョワジー側である」という認識、特権意識を持ってくれている重鎮たちが、世の中の中心だったころの方が、対話はしやすかったのかもしれない、とさえ思います。
相手の中にある「ノブレス・オブリージュ」に訴えかければよかったから。気持ちよくおだてて、協力してもらう、という手法も成り立ち得た。
でも、現代はそれが本当にむずかしい時代です。なぜなら、相手がケアしてきてくれちゃうから。
両者真っ当な良識を振りかざし合いながら、お互いに正当な被害者ムーブを取り合うから。
今の政治における保守とリベラルも、まったく同様のことが起きていますよね。
その板挟み状態のなかで、なんとか落としどころを見つけて調整しなければいけない、30代〜40代のビジネスパーソンの苦悩と葛藤が描かれている番組がめちゃくちゃ多かったなあという印象です。
これは、本当に辛いだろうなあと思います。
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もう一度ちゃんと棲み分けることが大事な気がします。
その棲み分けた先で、小さな現実つくり出しつつ、でも互いに別界隈の人々を排除しないということが大事なことのように思います。
そして、社会や世間で起きている変化に対して、お互いに目を向けること。
去年も書きましたが、もっともっと他人の「働く」や、人生に興味を持つことがいま本当に大事だなと思うのです。
とはいえ、必ず聞こえてくる反論は「仕事が忙しくて、そんな番組は観ていられない」という反論。
でも、僕からするとそれは完全に順序が逆であって、こういう世の中の変化を観ないから(知ろうとしないから)結果的に資本主義という社会に搾取され続けて、他人の「働く」を観る時間の余裕さえも、自らの生活の中に確保できないということだと思います。
そうすると、余計に自分の世間や界隈に閉じこもっていくことになるから、さらに搾取したい側からすると、好都合な状態となってしまう。
そうやって、リアルでもバーチャルでも、人々が「横の旅」しかしないから、世の中の分断が広がってしまっているんだろうなあと思います。
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いま一体、何がねじれの原因なのか。
世の中で語られているそれぞれの物語の「あいだ」に、いったい何が横たわっているのか。
それは、「どの業界でも、まったく同じことが起きている」という事実をまず知ろうとしない限り、なかなか見えてこない現実です。
そして、その解決策においては、近年ものすごく注目を浴びてきた「対話」では、きっともうむずかしいのだということも、なんだかものすごくよく分かったなと思います。
コロナ禍ぐらいまでは、確かに「対話」が大事だったのかも知れないけれど、対話をすればするほど、自らをケアする側の被害者として、自分のことを位置づけてしまう。
もはや、傾聴力とかでもないんだろうなと思います。「傾聴してあげている」という態度こそが、むしろ一番最悪な態度でもある。
もちろん、従来のように多数決で割り切ってしまったり、優秀なリーダーによるトップダウンで決めてしまったりも違う。
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じゃあ一体何が必要なのか。
僕も現状まったくわからないですが、やっぱり中間共同体の豊かさが大切だなと同時に思います。
具体的には、お互いに利害関係がなく、生産性を問われない「場」の重要性。
あるいは、お互いの弱さをさらけ出しても、決して本業の評価には響かない「焚き火を囲むような場」としてのコミュニティの価値。
このあたりは、Wasei Salonでも日々小さな実験を繰り返しながら、引き続き丁寧に考えていきたいなあと思います。
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少なくとも、世間で「対話が重要だ!」と叫ばれていて、会社や地域内で実際に「対話」が日々実践されているからこそ、今まさに日本が抱えている問題が2025年のこのタイミングで浮き彫りになっているのだと感じます。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/12/03 20:28
