Voicyを巡る一連の騒動。その中で、僕が特に興味深いなと感じたのは、株主でもある西野さんからも激励とその助け舟が出されているにも関わらず、Voicy社側が未だに完全に無視し続けていることでした。
少なくとも今のところ、代表の緒方さんからは、あれらの配信群に対して何も公の場ではコメントは出ていないかと思います。
この点、web3界隈の人たちが色々な意見を投げかけてくるが、それらを「山師の戯言だ」として見て見ぬふりをするのは、百歩譲ってなんとなく理解できる。
しかし、自社の株主でもあり、配信パーソナリティとして深く関わっている西野さんがせっかく差し出した手を無視するというのは、かなり驚くべきことだなあと感じます。
で、ここで僕は「正論」というものが持つ独特の難しさについて、改めて考えさせられました。
今日は、Voicyの今後の進退の話は一旦横に置いておいて、その内容の正誤には踏み込みません。
そうじゃなくて、今回のように「正論では決してひとは動かない」ということについて改めてこのブログで考えてみたいなと思います。
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この点まず、これは過去に何度もブログに書いてきたことではあるのですが、「これだけロジカルな正論なのにも関わらず、なんでわかってもらえないの…!?」と日々感じているひとは、世の中にはとても多い気がします。
でも、それはまさしく「正論」だからこそ、ひとは強く反発してくるんですよね。
だから本来は正論を聞き入れて欲しいひとたちがいる場合、相手がちょっとでも真剣に耳を傾けたくなるような発信にしていかないと、いつまでたっても相手のスタンス自体は変わっていかない。
むしろ、強烈なド正論を率直に語れば語るほど、相手は意固地になってしまい、お互いの対立は深まる一方だと思います。
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では、なぜそもそも人は正論で心を閉ざしてしまうのか?
それは、正論をぶつけられた側が「それまでの価値観や習慣を否定」された感覚が伴うからですよね。人は慣れ親しんだものを失うときほど忌避感を抱きやすい。
だからこそ、正論を投げかけられるほど、その不安や恐れから防御態勢を強めてしまうのだと思います。
これは誰もがきっと「耳が痛いなあ」と思いながらも、あえて、というかそれゆえに聞き入れようとしてこなかったアドバイスをいくつも抱えていると思いますが、まさにそれはそのような防御態勢を取ってしまうということだと思います。
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あと、意外と見過ごされていそうな視点でもあると思うのですが、正論をぶつけられると、単純にちょっと寂しいんですよね。
また、正論によって自分の間違いや不足を指摘されると、社会的地位やプライドを傷つけられたと感じる人も多いかと思います。
そして「正論」というのは、その伝え方次第でもありますが、基本的には非常に攻撃的にも聞こえます。
それゆえに余計に感情も心も、そして身体でさえも、硬直化していくという現象が、僕らを悩ませるわけですよね。
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そして、ひとはこのような状況を客観的に観たときに、「頑固」と呼ぶ。
そして第三者から見てもそれは実際に猛烈に頑固に感じるわけです。意固地になっているだけだから、その表現はめちゃくちゃ正しい。
だから、起業家は「素直であれ!」と頻繁に至るところで語られるわけですよね。
素直な起業家、正論をちゃんと受け入れて、自らの行動を反省し、正論通りに実行できるひとであることがとても大事。
先輩経営者やVCからの歯に衣着せぬ物言いによる「正論」を真正面からぶつけられても、心を閉ざさない人、それが起業家界隈で言われている「素直」の意味だと思います。
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とはいえ、一般人は起業家でもなんでもない。
だからこそ、正論を伝えたい相手に対しては、まっとうな批判じゃなくて、その寂しさに対して寄り添うことのほうが大事なんじゃないのかなと。
正論で説き伏せようとすればするほど、ドンドン固く心を閉ざしてしまうなら、そうせざるを得ないのが現実だと思うんですよね。
また、ここでさらに厄介だなと思う現代の特殊性は、観客やフォロワー側が面白がるのは、ド直球の「正論」のほうであることなんです。
言い換えると、正論を披露して喜ぶのは、同じ立場で自分と近い意見を持っている人間であって、本当に説得したい、行動変容して欲しいと思っている相手ではないということです。
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でもSNSや音声配信、動画などで間接的に相手に正論をぶつけると「よくぞ言ってくれた!」と賛同する同志がドンドン集まってきて、あたかもその意見が真理のように思えてくる。
それが今、リアリティ・ショー全盛期にもなっている理由だと思います。
観客を意識するがゆえに、相手に「正論」をぶつけてしまう。これも観客がいること、直接課金型のジレンマだなあと思います。
観客の中では、寄り添う姿勢を肯定し称賛するひとたちなんて、本当に一握りですからね。
大抵の場合は、ただの野次馬精神であって、政治家同士や格闘家同士みたいな言い争いを好む。
で、それが実際に如実に数字にもあらわれる。だからこそ、ここぞとばかりに、相手の凋落に漬け込んで、自分たちの新しい取り組みや有料コンテンツにお客さんを流そうとしてしまうわけです。
これは誰が悪いわけでもなく、それがメディアの構造であり資本主義の成れの果て、ということなんだと思います。
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で、今日のこのお話は、今の世界、特に政治の世界においてもまったく同様のことが起こっているなあと思っていて。
プーチンだってそう、ゼレンスキーもそう。そして、この「人間は正論をぶつけられると、心を閉ざす」という感情のほうこそ、実は世界を動かしている現実だということを悟って、そこを上手に逆手に取っているのが、第二次トランプ政権だと思います。
まさかこの21世紀が四半世紀過ぎたあたりで、リベラルデモクラシーという有無を言わさずのロジカルな「正論」から、時代が逆回転するなんて、誰も思ってもみなかった。
でも実は人間のそんな「感情」のほうこそ実は世界を動かしていて、「感情」や「仁義」の世界で世の中は動いている。
例えば最近だと、アメリカ副大統領であるヴァンスがゼレンスキーに対して「ありがとうは言わないのか?」みたいな発言で大きな注目を集めていましたが、アレなんかもまさにそう。見事に第二次トランプ政権にハックされているなあと思います。
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もし相手に正論を受け入れて欲しくて、本当の意味で行動変容を促すような場合においては、徹底的に相手に寄り添うしかないのだと思います。
そして、その様子自体は決してリアリティ・ショーにはなりません。
本人にしっかりと向き合うという作業は、観ていてとても退屈なものだからです。少なくとも、今のようなショート動画全盛期において、コンテンツとして耐えうるものでは決してない。
視聴者や観客からすると「なんでもっと率直に言わないんだ、相手が悪いことは明白だろう!」となるんだけれど、でも本当はそのほうが急がば回れだったりするわけですよね。
太陽的な働きかけを通じて、懇切丁寧に向き合うこと。それが真のおせっかいであり、正論による行動変容をちゃんと起こして欲しい場合こそそんな歩み寄りが大切なんだと思います。
正論でねじ伏せて動いてくれるのは、自分がトップを務める組織の社員だけなんです。そんなのは自分の会社やコミュニティの中だけでやっとけ、という話なんです、本当は。
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で、いつもこの話をする際に僕が思い出してしまうのは、ジブリの『ハウルの動く城』なんです。
特に、荒地の魔女に対してのソフィーの対応は、僕らが学ぶべき点がたくさんあると思っています。
ソフィーは、荒地の魔女に対して、前半部分では自分に呪いをかけた相手だとして怒りを露わにするわけですが、最終的には寄り添い、家族にさえなっていく。
そして、ハウルの心臓を取り返すシーンでは、相手の意固地を言葉で説得しようとせず、ただただ抱き寄せるだけ。
でも一方で、ソフィーがいつでも誰でも優しくハグをするように受け入れているかと言えば決してそうではなく、サリマン先生に対しては明確にNOと言う。
つまり体制側だからと言って絶対に媚びないわけです。自分の信念や納得感に従う姿勢も、素晴らしい表現だなと思うんですよね。
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最後に、どうしても今のようなSNS社会で個人メディアを動かしていると、観客の目ばかりを気にしてしまって正論合戦のリアリティ・ショーに流れてしまう。
そうすることによって端的に数字やアテンション、そしてお金が得られるからです。
でも、それをやればやるほど、もっともっと上のレイヤーで札束をつかて殴り合っているトランプやイーロン・マスクのような人々の思うツボ。
さらに個人レベルでは、よりお互いに対立が深まっていくばかり。
そうではなくて、本当のおせっかいは、徹底して相手に対して真摯に寄り添い続けること。くれぐれもそこで、ロジカルな正論をぶつけないこと。
なんだかデール・カーネギーの『人を動かす』の1ページ目に書いていそうな話ですが、今あらためて重要な視点だなと思いました。
いつもこのブログを読んでくださってるみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/03/09 20:59