夏休み中に読んだ本の中に「国家が保障する幸福追求権は、『幸福権』ではない。間違う自由もある」という一節がありました。

なんだかこれがものすごく印象に残っていて。

「人間とはなんだろう?」

「何が、動物とは異なる点なんだろう?」

そんな答えもない問いを、ずーっと考えていました。

今日はその問いに対する個人的な暫定解を少しだけ書いてみようかなと思います。

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この点、人間を人間足らしめているものは、「感情」や「欲望」と思われがち。

「人間らしくあれ!」は往々にして、「自己の感情や欲望に、ありのままであれ!」みたいなことが言わることが多いです。

でも僕は、それは間違っていると思っていて。

ありのままでいいわけがないじゃないですか。

でも、あとからあとから自然と湧き上がってくる感情や欲望、そのやり場に困るから、「ありのままであれ!」と開き直りたくなるんですよね。

「怒り」なんて特にそう。

だから、感情の発生それ自体がコントロールできない以上、それこそが人間なんだという開き直りは一定の説得力を持ちます。

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思うに、ある程度脳が発達している動物であれば喜怒哀楽など、一般的な「感情」は全て持ち合わせているものなのだろうと思います。

ただし、人間だけがその湧き上がってくる感情に意味づけをして、ラベリングし、その上でどんな行動を起こすのかを自ら意思決定できる。

つまり感情や欲望の「奴隷」にならず、その主人になれる“可能性がある”のが、人間なのだと僕は思うのです。

もちろん、逆の意味付けも可能なわけだから、動物以上に加速度的に感情や欲望の奴隷にもなれる。(それがたぶん「ありのまま」の行く末。)

そう考えると、上述した「幸福追求権」というのは、ものすごく理にかなっている権利だなと。

つまり、人間だけが自己が定める幸福に向けて、それを追求する力(権利)を持ち合わせているわけです。

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そんなふうに考えてくると、全ての感情を自然と受け入れられるようになってきたんですよね。

ネガティブな感情や、他者を支配したいというような醜い欲望も、それ自体には嫌悪感を抱かなくなった。

今までは、浮かんできた瞬間に「うっ…」とダメージを食らっていたんです。

でも、それ自体が浮き上がってくることは自然の理であり、その意味づけ次第で、自分自身がその感情や欲望に支配されないことだけに気をつければ良いのだと、気づくことができたんです。

それはちょうど「天気」にも近くて。

ネガティブな感情や、醜い欲望とは雨が降ってくるようなもの。

そこで天気(雨)をコントロールしようとしたら、その無謀さに絶望してしまうし、降り止まない雨の行く先を求めたら、他者に危害を与えてしまうことになるでしょう。

そうではなく、雨が降ってきたタイミングには傘を用意しておく。

また、雨が作物などを育てて、恵みに変わるわけだから、捉え方次第ではネガティブがポジティブにも変わり得る。

まさにそんなイメージです。

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たったそれだけのことなんですが、自分にとっては大きな気付きであり、わかりやすい心の変化でもあったので、今日のブログにも書き残しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの参考になったら幸いです。