今朝、Xでバズっている投稿を見かけました。

中国の動画サイトbilibiliに、『Re:ゼロから始める異世界生活』の、公式ではまだアニメ化されていない原作のエピソードを、AIで映像化した動画が投稿されていたというお話です。

https://x.com/ikettitencho/status/2110347014362050967?s=20 

投稿主によると、既存のアニメの声優さんの声までAIで再現されているそうで、公式より先に原作が映像化されてしまうことへの強い懸念が語られていました。

これを読んで、僕が真っ先に思ったのは、「そりゃあ、こうなるよなあ」ということでした。

中国がその技術を手に入れてしまった以上、やめてくれるとはまったくもって思えない。

人間の「できる以上は、観てみたい」という欲望には、きっと誰も抗えないんだろうなあと。

そして、この欲望を前提にすると、映画そのもののつくられ方や、ビジネスの構造自体も、これから大きく変わっていくはずなんですよね。

今日はそんなお話について、僕なりに少し考えてみたいと思います。

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まず、僕がこの話を聞いてもそこまで驚かなかったのは、以前、中国で暮らしていた経験も大きく関係しています。

以前から何度も書いてきましたが、僕は新卒で、北京にある日本人が起業したITベンチャーで働いていました。

当時の僕が触れていた中国のネット環境では、日本のドラマもアニメも、驚くほどたくさんの動画が、中国語の字幕付きで出回っていたんですよね。

それこそ、日本で探すよりもむしろカンタンに見つかるんじゃないかと思うほどに。もちろん全部が違法です。

あの環境で暮らしてみて身体感覚を通して理解したのは、自分が当然だと思っていることは、場所を移した途端、まったく当然ではなくなるということでした。

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日本側から見れば、「なぜ、そんなことをするのか」と思います。

でも、向こう側から眺めれば、「できることがあって、観たいひともいるのに、なぜやらないのか」となる。むしろ、律儀にためらっている僕らのほうが、よっぽど不思議なひとたちに見えていたはずです。

つまり、日本と中国とでは、何を粋とし、何を野暮とするのかが、まったく違うんですよね。

これも、良し悪しの違いではなく、文化の違いです。所変われば品変わる、とはよく言ったもので、こちらがぐっと我慢することを粋だと思っている場面で、向こうでは、それをためらうことのほうが、よっぽど野暮に映ったりもするわけです。

そこに、日本の文化の中で養われてきた自分の好き嫌いをそのまま持ち込んで眺めてしまうと、きっと大事なことを見落としてしまうはず。

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だからこそ、今回も「そんなことはおかしい」と僕らが声を上げれば、相手もそのおかしさに気づいてやめてくれるはずだとは、どうしても思えない。

もちろん、権利を守るために何をするのかは、真剣に考えなければいけないとは思います。

ただ、そのうえで、相手も僕らと同じところでためらい、同じ理由で立ち止まってくれるはずだと思い込んでいると、いま目の前で起きている変化を、きっと読み違えてしまうはずです。

僕ら日本人の常識や好き嫌いが、世界の進み方まで決めてくれるわけではないからです。

そして、もっと厄介なのは、この「できるなら観てみたい」という欲望が、僕自身の中にも、はっきりとあることなんです。

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で、この点、少し前からWasei Salonでハリー・ポッターの連続読書会を始めました。

原作を読んだあとに映画を観ると、ものすごく不思議な気持ちになるんですよね。なんだか、ずっと予告編が流れているような。ダイジェスト版というか、地上波のアニメの総集編を見せられているような感覚になる。

もちろん、限られた上映時間の中にあの長い原作を収めるのだから、そうなってしまうのは当然です。

そうすると、どうしても「あの場面も、この俳優たちで観てみたかったなあ」とも同時に思ってしまう。

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これは8月末にXやサロン内にも書いたのですが、ハリー・ポッターの映画と原作を行ったり来たりしていると、そう遠くない未来に、この原作がすべてAIで「映画になる」のは、もうほぼ確定しているんだろうなと強く思うのです。

ダイジェスト版のような映画さえこの世に存在していれば、それこそ当時のダニエル・ラドクリフやエマ・ワトソンたちの姿のままで、原作どおりの映像が、5時間分だろうが10時間分だろうが無限に製作できてしまう。

しかも、誰かが大金をかけるわけでもなく、手元のAIに映画と原作の文字列を読み込ませるだけで、誰でもカンタンにすぐつくりだせてしまう。

これをまさに「魔法」と呼ばずに、なんと呼ぶのか。

ある意味では、オーディオブックが「本を耳で読む」ものになったように、AIによって「本を映像で読む」ことができるようになる、と言ってもいいのかもしれません。

今回のリゼロの件は、まさにこの未来が、思っていたよりもずっと早く、しかも海の向こうから先にやってきた、ということなんだと思います。

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しかも、これはハリー・ポッターに限った話でもありません。

先日、映画『汝、星のごとく』を観たときにも、まったく同じことを感じました。

ポスターにもなっている場面が、まさかの回想シーンとして描かれてあって、原作ファンとしては「ここをもっと掘ってほしかった!このキャスト陣で…!」という願望なんかもあるわけです。

でも、近い将来には、たとえ短い回想シーンであっても、その数秒の動画さえ存在していれば、観客ごとに好きなだけAIで引き伸ばして楽しめるようになるのだと思います。

このとき僕らは、映画全体を長くしてほしいわけではないんですよね。自分がいちばん観たかったその時間に、もう少し長く滞在していたいだけ。

そして、その場所はきっと、同じ映画を観たひと同士でもまったく異なる。ふたりが出会った頃をもっと観たいひともいれば、脇役の人生のほうを知りたいひともいるはずです。

これまでは「もっと観たかったなあ」と胸にしまって持ち帰るしかなかったその気持ちに、AIがそのまま応えてしまうわけです。

もっと極端なことを言えば、映画『汝、星のごとく』から映画『星を編む』をフルAIでつくれてしまうのも、きっともう時間の問題です。数年以内に実現しても、何の違和感もない。

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そして、ここが不思議なところなのですが、僕らはすでに、原作の展開も結末も知っているんですよね。

それでも、観たい。

以前、Xではこれを「思い出の穴」と書きました。原作の記憶と、映画の記憶、そのあいだにぽっかりと空いている、まだ埋まっていない穴のこと。

そして人間は、きっとこの穴を埋めてくれるものに、驚くほど弱い。

考えてみれば、人間はずっと昔から、懐かしいものが新しいかたちで訪れることに抗えない生き物なのだと思います。まさに、温故知新であり、不易流行。

変わらずに大切にしてきたものが、まだ見たことのない姿で目の前に現れたとき、僕らの心はいちばん大きく揺さぶられてしまう。

このように、思い出の穴を埋めてくれるAIは、まさにその一番弱いところに、まっすぐ届いてしまうんですよね。

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だとすれば、「AIは原作を超える傑作をつくれるのか」という議論だけでは、この変化はうまく捉えきれないと思うのです。

原作にすでに書かれているあの場面を観られるだけで、僕らは十分にうれしいのだから。

作品を大切に思っているからこそ、もっと観たいと願ってしまう。そして、その愛情そのものが、公式を待ちきれない欲望にもつながってしまうわけです。

好きな作品であればあるほど、その誘惑はドンドン強くなるんだろうなあと思います。

ここまで考えてくると、映画をつくる側も、いずれこの欲望を前提に動きはじめるはずなんですよね。

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具体的には、公式には映画自体が、ハウスメーカーの建てた「モデルルーム」のようなものになっていくような未来も十分にありえるんだろうなあと。

ハウスメーカーが建てたモデルルームに入ると、僕らは自然と「ここで暮らしたらどうなるだろう」と想像しはじめますよね。具体的な空間を見せてもらったことで、自分の暮らしのイメージがどんどん膨らんでいく。

映画も、これから同じような役割を担うのかもしれません。

まずは一本の映画で、その世界の風景や、登場人物の顔と声、そのひとたちが生きている時間を見せてもらう。そして、観終わったあとから、「僕はここをもっと観たい」「私はこのひとの時間をもっと知りたい」と、それぞれが好きな場所へ進んでいくようなイメージです。

つまり、エンドロールが流れたあとから、本格的に、その世界で自由にそれぞれが過ごす時間がはじまるわけです。

映画を観たあとに、その世界を自由自在に引き伸ばして没入できること。

それ自体が、これからの映画(のようなもの)の醍醐味になっていく可能性は十分にあるだろうなと思っています。

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そうなれば、当然ビジネスの構造も変わってくるはずです。

一本の映画の鑑賞料とは別に、その世界に滞在し続けるための利用料のようなものも生まれてくるでしょうし、俳優の姿や声をどこまで追加の映像に使っていいのか、原作者や制作に関わったひとたちにどう対価を戻すのか、そういった設計も、作品をつくる段階から必要になってくる。

つくり手が考えることも、「この二時間の中に、何を収めるか」だけではなくなっていくはずです。

「この二時間に触れたあと、観客はこの世界で何をしたくなるだろうか」までを含めて、映画がつくられるようになっていくのも必定。

そう考えると、これまで映画の中に入りきらなかった時間こそが、むしろ大きな価値を持ちはじめるのかもしれません。

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今回のような先回り映像化の話を聞くと、どうしても「どうやって止めるか」という議論になりがち。

もちろん、それはそれで本当に大事な議論だとは思います。

ただ同時に、そこに現れている「もっと観たい」という欲望を、公式の側がどう引き受けていくのかも、もうすでに問われはじめているのだと思います。

観たいひとがいて、それをつくれる技術が、この世界に既に顕現してしまったのだから。

その状況で、これまでと同じところでみんなが立ち止まってくれるはずだと考えるのは、僕にはやっぱりむずかしいと思う。

中国で暮らした経験もそうですし、何より、僕自身の中にある「このキャストで、あの場面をもっと観たかった」という気持ち自体を、決してなかったことにはできないからです。

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今日語ってきた未来がが手放しで喜べる未来なのかどうかは、正直、僕にもまだよくわかりません。

ただ、映画を観終わることが、その物語を楽しみはじめるきっかけとなる、そんな未来は、案外すぐそこまで来ているんだろうなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。