これまでの労働は、基本的には「生産」してもらうことが労働でした。でも、これからは「価値づけ」をしてもらうことが、人々の労働となりつつあるなと思います。

ゆえに、コミュニティが非常に重要になってくる。

なぜなら、生産はひとりでできても、価値は一人ではつくれないから。

他者がいて、その価値を他者と共有し、共鳴して、初めてそこに価値が生まれてくる。

AIの進化によって、多くの生産活動がドンドンと自動化されていくなかで、人間の仕事は「生産」から「価値づくり」へと着実にシフトしている。

つまり、物質的なものを作り出す作業ではなく、それに意味や重要性を与える作業が、一般の人々に対して求められるようになってきていて、それができるのは人間だけであり、人間が集っているコミュニティだけが、それを可能としているわけですよね。

だから今、こんなにもコミュニティが重要視されているのだと思います。

言い換えると、その「熱量」を能動的につくりだすことに重要性がシフトしてきている。

このように、「価値づけ、価値づくり」がこれからの人間に残された数少ない「労働」のあり方になってきているような気がしているというお話を、今日は少しだけ書いてみたいなと。

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これはメインカルチャーがわかりやすく衰退化していることもかなり大きいと思っています。

具体的には、マスメディアによる権威性や太鼓判がほとんど通用しなくなってきたということでもあります。

これまでマスメディアが喧伝しているものに「価値」があると僕らは信じて疑わなかった。これは喩えるなら、江戸時代中期の人々が江戸幕府を疑わなかったように。

ソレらはあって当然のものだった。

でも技術の進歩のおかげで、価値が日々相対化され続けた結果、マスメディアが衰退し、そのメインとしての「ものさし」の機能が崩壊しているイメージに近い。

ただし、当然これは静かに進行していきます。現実の実態以上に、人々の記憶や思い込みが先行して存在しているから。

一朝一夕でどうにかなることではなく、じわじわ進行していくわけです。それはじわじわと円安が進み、世界の中でも相対的に日本の物価が安くなっていくことにも非常によく似ている。

SNSが誕生して15年以上も経過してきて、メインがあってのカウンターカルチャーという構造自体が、そろそろ成立し得なくなってきているタイミングがまさに今だということなんだと思います。

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そうなってくると、いよいよ一体何に「価値」があるのかもよくわからなくなってくる。

たとえば、10年前は、映画館で公開されている映画とオンデマンドで配信されているだけの映画、そのどちらに価値があるのかと言われれば、圧倒的に前者に価値があると国民全員が信じ込んでいた。

でも今は、TOHOシネマズで公開されている映画と、ネットフリックスオリジナルの映画、どちらが価値が高いか?と言われれば、かなり意見が割れる瞬間もあると思います。

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これはきっと100年に1度のタイミングと言っても、過言ではない。

だから、いま新たな問いとしては「そもそも、価値ってなんだろう?」と問い直すことが大切なんでしょうね。

なんで、自分たちはこれを価値だと思い込んでいたんだろう?と、そもそもを問い直すようにもなっている。

つまり、その「価値」自体を因数分解するようにして、分析ていくようにもなる。

たとえば、「貨幣とは何か」はわかりやすいなと思います。最近読んでいた南直哉さんの『仏教入門』という本の中に非常に面白い記述がありました。

以下引用してみます。

貨幣それ自体はただの紙であり、ほぼ無価値である。
しかしそれが市場の取引関係を媒介する役割を負わされた結果、それ自体に価値があるかのように錯覚される(何とでも交換できるもの)。
市場経済社会では、貨幣の「何とでも交換できる」機能は、「思いどおりにできる」という力の実質的な意味になる(「金が無いのは首が無いのと同じ」という諺)。するとそれは、「何でもできる」という意識を喚起する。その結果、貨幣への欲望は際限がなくなるであろう。なぜなら、その欲望は具体的な物に向かっているのではなく、「思いどおりにできる」という観念、すなわち所有の欲望それ自体に向かっているからである。
関係性として存在するものを実体視することが「無明」であると言うなら、貨幣はその最もわかりやすい事例と言えよう。仏教が所有行為を厳しく批判する所以である。


なぜひとが貨幣を欲望するのかと言えば、物質への欲望ではなく「思い通りにできる」という観念に向かっているから。

そうなると、どれだけもので満たされていても、「思い通りにできる」観念はみたされないから、ゆえに無限に貨幣を求める。ここまで分解すると、構造に対して自覚的になれるはずです。

貨幣は手段であり道具だと思っている段階までだと、ここまでは考えられないとおもうんですよね。「そもそも」を問い直して考える重要性みたいなことは、まさにここにあると思います。

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で、現代の優秀なマーケターのひとたちは、必死にここの牙城を崩しにかかっている。

マスメディアが握っていた「価値の創出機能」みたいなものが相対化されて崩壊し、民主化されてきたから、これは好機だと言わんばかりに新しい価値を意図的に生み出そうとしている。

それを生み出すために必要なのは、人間の「夢中」であるとが一つの欠かせない要素であることも、徐々に気づかれて始めてきた。

局所的なコミュニティ内でも、一定の人々が夢中になると、れはストリートにおいて価値が生まれてきます。

そこで交換も生まれてくると「市場価格」という新たなものさしも誕生する。

昨日も書いたけれど、これはストリートカルチャーと全く一緒です。

だったら、その流動性と市場価格をつくればいい。そのハックの話が今、頻繁に語られている話なんだと僕は思っています。

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人々が集団で何かに対して夢中になること。情熱を持って何かを追求することが価値創造の中心となってくる。

逆に言うと夢中を集めると、自然とそこに価値は帯びるのだと。

つまり、ひとは価値があるものに夢中になるのではなく、夢中になっているひとが多いから価値が生まれるという構造。

これまでは、それでもそこにマスメディアの太鼓判がなければいけなかったんだけれども、もうそんな太鼓判も必要なくなりつつある。

逆に、そこに価値さえついてくれば、後追いで太鼓判を権威の方から勝手に押しに来る。一昔前のルイ・ヴィトンがSupremeとコラボしたみたいな話で、完全に主従が逆転してくるわけですよね。

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で、トークンやそれに付随する報酬設計の話も、この「夢中」のためのインセンティブをどう設計するとうまくポジティブなスパイラルが生まれてくるかという話が、ずっとなされているんだと認識しています。

言い換えると、従来の報酬システム、特に金銭だけに基づくインセンティブは、この新しい価値創造プロセスには必ずしも適合しない。

もちろん間接的にお金があることによって、人は時間を買って夢中になれる余白を手に入れるかもしれないんだけれども、夢中になるためには、必ずしもお金は必要なくて。

一方で、15年前ぐらいに誕生した「いいね」じゃ足りない。それだけだと、やっぱり持続可能性がない。

つまり、お金といいねの弁証法的な発展が、いま求められているということ。それがトークンなのではないか、という仮説なんだと思います。

どちらにせよ、人々が夢中になって、情熱を注ぐ活動への参加を促すためには新しいタイプの報酬やインセンティブが必ず必要となってくる。

ストリートカルチャーと雑誌のストリートスナップの組み合わせや、お得意様のような贈与・互酬の関係性なんかは、非常にわかりやすかった。

ものすごく一見さんの人間には入りにくい人間関係が、そこには明確に存在していた。

このように、一体何を渡すと一瞬の盛り上がりのキャンプファイヤーではなくて、メラメラ燃える焚き火となって、その焚き火の一番高温の青い炎がうまれるか。それがめちゃくちゃ大事な視点だなと思います。

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で、ここでさらにおもしろいのは金銭やトークンなどの「報酬」だけではなくて、「原体験」もそこには同時に必要であるということ。

昨日のCNPトレカの話ではないけれど、あの盛り上がりで頭をガツンと殴られたのは、因数分解しただけでは足りないということです。

原体験や身体感覚が必要だった。ここあまり語られないけれど、めちゃくちゃ重要な視点だと思っています。

理性だけで判断をして、人間は動いているわけではない。だからweb3という理性が考え出した仕組みだけでは、不十分なのでしょうね。

既に身体の中に染み付いている「身体感覚」や「原体験」に伴って人々は判断をしている。それは人間の身体の中だけに眠っている記憶みたいなもの。

どれだけ「こういうふうに価値はできていますよ」と因数分解して証明したところで、身体性がそこには圧倒的に足りない。

だからこそ、。価値を因数分解して、かつ新しい仕組みだけではなくて従来の原体験の記憶と結びつけることが、めちゃくちゃ大事なことだなあと個人的には思っています。

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最後に、多くの人は従来の慣習や習慣を未だに引きずっていて、マスメディアで取り上げられているものに「価値」があると神事、人間が行う労働というのは「生産」のためであり、その報酬として受け取るのは「お金」だけ、という常識から逃れられないでいる。

でもきっと、これからはもうその昔ながらの「生産」には価値はなくなっていくはずです。

従来的なマスメディアで大量に広告を打って憧れの生活を想起させたり、インフルエンサーにばらまいてその人間の説得力を用いたりするわけでなく、

昔のストリートのセレクトショップやNFTのAL機能のように、限られた人間、そんなロイヤルカスタマーだけに配って、価値を高めていくような手法が一般的なビジネスの中でも広く浸透してくるはずです。

なぜなら、繰り返しますが、無限に生産される時代においてはその方が圧倒的に価値がつくから。そして、そこにひとは夢中になるから。

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そもそも資産とは何か、その大前提から問い直すタイミングが今やってきているなあと思います。ここを完全に見誤ってしまうと、きっと何か大きなものを見失う。

もちろん従来型の資産、具体的には不動産や株式、貴金属などの古典的な価値のあるあるものに十分にヘッジをしつつ(意外とここめちゃくちゃ重要)、新しい報酬や価値のがうまれてくる資産の可能性も同時に探るということが、今本当に大事なフェーズだと感じています。

というかこの変化を理解しないと、これからの「はたらく」だって決して理解することができないと思っています。だって、はたらくってそもそも価値を生み出すことそのものだから。

今日はまったくうまく言語化できていないかもしれないですし、全然伝わっていない可能性も高いなあと自覚しているんだけれども、このあたりはこれからも丁寧に言語化していきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。