昨日から触り始めて、レターポット。
そのすごさは、自分が変わってしまうことだなあと思います。
具体的には、自分の心が大きく変化することだと思います、これが本当に一番すごい。
普段と書く環境が変わり、一文字ずつが貴重なものだからこそ、なんとか一番の自分の中にある本心を伝えようと懸命になる。
そんな気持ちで自らがキーボードに向き合うと、自分の中にこんなにも相手に対して感謝の気持ちや、心から応援したい気持ちがあったのかと、本当に驚かされてしまいます。
大げさではなく「自分が変わる」それこそが、レターポットの魅力だなあと思う。
これはまさに構造のちからで、自分自身が変わってしまう。
それだけでなんだか魔法をかけられた気持ちにもなり、このあたりが本当に現代アート的だなあと思います。
で、今日は、そんな体験を通して改めて、強く実感したことについて。
本当は、こうやって自分自身が変わることが大切なはずなのに、「変わらない私」そしてその「変わらない私が、一番安全な考えの持ち主である」と無意識に信じ込んでしまっている現代人の危うさについて、このブログにも少し書いてみようかなあと。
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この点、多くの人は、「変わらない自分」という確固たるものが、客観的に明確に存在すると思いがちです。
それがうまく見つからないと「自分探し」のような旅にも向かわせる。
でも、本来「変わらない私」なんてものは、存在しないんですよね。
あくまで人間は、その場その場の「環境の産物」にすぎない。
よって、ポジティブなところにいれば、ポジティブな自分が自然と立ちあらわれてくるし、ネガティブなところにいれば、自然とネガティブな自分が立ちあらわれてくる。
まさに「朱に交われば赤くなる」現象です。
ただ、それでも、なぜか人は「変わらない私」が存在すると誤解をする。
それはきっと、アウシュビッツ収容所のような絶望的な状況や空間においても、人間らしく振る舞うことができるひともいる、みたいな話を見聞きするからだと思います。まさに『夜と霧』の世界観ですよね。
でもきっと、そのような絶望的な空間でも、倫理的な振る舞いが行えるひとたちを基準にしちゃいけない。もちろんナチュラルボーンに倫理的に振る舞えるひとは間違いなくいる。
でもそれは、どちらかと言えば、そのひとに与えられたギフトみたいなものであって、身長が高いとか足が速いとか、そういう先天的な才能に近い場合も多いはず。
もしくは、ただの運です。人生は一回性が強いものであって、たまたまその瞬間にダーティーな部分を発露させずに済んだだけかもしれない。
それを後世のひとたちが振り返る過程の中で、高尚な意味付けをして、あの人は昔からすごかったというような捏造までは言わないけれど、あとからその価値を過大評価するような側面は間違いなくあるだろうなあと思います。
あと、それ自体もある種「宗教」と現実の「構造」の交差する点だったりもするのかなあとも思います。
つまりやっぱりそれも環境の産物であり、環境が引き出しているとも言える気がする。塩をかけたスイカはより一層甘くなるみたいなイメージ。反対方向の作用を及ぼすとよりポジティブな面が引き出されるというように、です。
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で、これと全く同じような話が現代にも存在する。
世の中の大半のひとが、株式会社という仕組みや、昭和から平成にかけての資本主義という仕組みにおいて、その構造の中で自然と身に着けてきた価値観を、「変わらない私の本質」だと思い込んでしまっていると僕は思うんですよね。
その基準から、やたらとずる賢くなったり、その真逆で、私は絶対にそんな非倫理的なことはやらないと思っていたりすることの危うさみたいなものが間違いなくあるなあと。
僕は、歴史上で起きているありとあらゆることすべてを、自分がやってしまう可能性はあるだろうなあと思います。それは善悪両面どちらにおいても、です。
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もっと具体的に言うと、自分が相手よりも優位な立場にいて、相手が自分の一存で決定できることを、喉から手が出るほど望んでいる場合、相手が持っている何かしらの「資本」と交換しようとするに決まっている。
そんなディールを、そのような優位な状況にいて自らが持ちかけないわけがない。
繰り返すけれど、それは善悪の話ではなくて、あくまでそんなディールが可能となるような構造の問題だと思うんですよね。
ゆえに、僕はそのような自分のネガティブサイドが引き出されないような構造を極力避けて、もっとポジティブサイドが引き出される構造をつくりだしたいと日々願っています。
具体的には、自らの会社を大きくするのではなく、Wasei Salonのようなコミュニティをつくりだす方向に舵を切ろうと思いました。
他にも、イケウチオーガニックさんや坂ノ途中さんのような、既に非常に素晴らしい価値観や倫理観で駆動している大先輩たちと共に一緒に仕事をさせてもらって、自らもその構造の中に身を浸そうと思った。
で、僕がいまこんなにも「トークンエコノミー」に熱心なのも、まったく同じような論理からなのです。
自らが触れるエコノミーの構造から変えていかないと、ダークサイドに落ちるその可能性があると、真剣に思っているからです。
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この点、僕は自分自身のことを「安全」だとまったく思っていない。
養老孟司さんと C.W.ニコルさんの対談本『「身体」を忘れた日本人』という本の中に、非常にわかりやすい話が書かれてあったので、ここで少し本書から引用してみたいと思います。
養老 もう一つ僕が言っておきたいのは、「人間は状況の産物だ」ということです。英雄だって、その人が英雄になれるような状況があったから英雄になれたので、状況が合わなければ、英雄にはなれない。性善説とか性悪説とか言われるけど、それもやっぱり「状況」によるんです。ある状況に置くと、人間はとんでもないことをする。たとえば、田舎で凶悪事件があったとき、「まさかあの人が犯人だなんて」ってよく言うでしょう?普段はおとなしくて、真面目でとか。そのときに反省しなきゃいけないのは誰だかわかりますか?「そう言っている人」なんですよ。
(中略)
養老 いまの人は絶対それを考えないんです。あの人はどこか変わっていたんだろうって結論にする。でも、「自分が危険だ」とは思っていないんですよ。それが放射能に対する過剰な恐怖になると僕は思ってるんです。つまり、僕が放射能をあまり怖がっていないのは、「怖いのは俺のほうだよ。状況によっては、何するかわかったもんじゃない」と思っているからです。
放射能を怖がって逃げているお母さんは、きっと「自分は怖くない」と思っているんですよ。でも、そういうお母さんたちをギリギリの極限状態に追い込んでいくと、ほんとうに何をするかわかりませんよ。韓国でフェリーが沈没したとき、船長が真っ先に逃げたじゃないですか。船長に対して、みんな怒っているけど、僕なんかは「自分だったら逃げるかもしれないな」と思ってます。逆に、そう思っているから、大勢の命を預かる船長なんてやらないんです。
これは最初に一読して読んだだけでは、もしかしたら意味が全然わからないかもしれないです。もし腑に落ちなかったらもう一度丁寧にじっくり読んでみて欲しい。
少しずつ理解できてくるようになってくるはずです。
仏教ではこれを「縁起」と言い、親鸞は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」と語ったという話は過去に何度もしてきました。ちなみに、現代語訳すると「しかるべき業縁にうながされるならば、ひとはどんな行いもするであろう」という意味です。
とはいえ、このようなことを何度も何度も繰り返し先人たちから指摘されてもなお、それが理解できないのが現代人。養老さんは、それを「バカの壁」と呼んだのだと思います。
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たとえば、1週間も食事を取れない状況に追い込まれたら、人間は人間のことを食べますよ。
僕もそのような状況に置かれたら、きっと間違いなく人間を食べると思います。
にも関わらず、現代人は自分は人間を食べることなんて絶対にありえないと思っている。
今の環境、今の倫理観のまま「変わらない私」がそのときに、その状況に対峙して判断を下すと思い込んでいるからです。
でも、そんなわけないじゃないですか。
同様に、ひとは今の自分の価値観や倫理から勝手に歴史を眺めてしまう。だから、歴史上のありえない暴挙も、簡単に批判ができる。
ゆえに、現代の社会問題においても同様で、たとえばギャンブルや違法カジノにハマる人に対しても簡単に石を投げる。
でも、そのような状況に自分自身が置かれたら、自分も同じような決断をしたかもしれない。その状況の「わからなさ」に対して、どれぐらい相手の立場にたって、考えることができるかどうかが、現代を生きる僕らには問われているんだと思います。
ありとあらゆる立場にいるひとの情報が入ってくる時代に生きているんですから。
「でも、そんなことは不可能だ!」と、人は言うでしょう。
そう、不可能なんです。でも不可能だからこそ、自分の中の持てる力や創造力を目一杯働かせることが、とっても大事だと思うんですよね。
そして、そこで少しでも「あの時代のあのひとも、この時代のこのひとも、私だ、私自身なんだ」と真に腹の底から思えたら、初めて、そうじゃない構造、自分の善性のほうが最大限に駆動する構造をつくりだしていくことの重要性を実感し、それを必死で構築していこうと願うはずなんです。
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繰り返しますが、どのような場面においても、倫理的に振る舞えるひとはこの世界には存在する。
それは、ブッダもイエスも、ガンディーもマザー・テレサも、きっとそのような偉人だったのでしょう。
でも、僕ら凡人には不可能です。
一方で、そのようなひとたちが見せてくれた普遍的な「善性」みたいなものに対して心からハッとすることぐらいはできる。だったら、その「善性」が少しでも発露され続けるような構造をつくるのが、僕ら凡人の役目だと僕は思います。
「習慣は第二の天性」というように、僕ら凡人の理性に対して唯一許されているのは、この習慣をどのように構築するのかのほう。
そして「常に安全ではない自分」の危うい面を発露させずに済むためには、一体どうすればいいのか。どのような構造と、どのようなコミュニティを生み出して、その「暮らし」を全身全霊かけて、自らが守っていけばいいのか。
終戦後、雑誌『暮しの手帖』を創刊した花森安治がやろうとしたことも、きっと間違いなくこういうことだったのだろうなあと思います。
もちろん、その習慣というのは、いつでも本当にひょんなことをきっかけにいとも簡単に崩れ去る。
だからその習慣に基礎づけられた私自身もまた、「私の本性」だとは決して誤解しないことです、すべては諸行無常です。あくまで環境の産物にすぎない。
そうやって、自らの危うさに対して常に自覚的であること。そうやって世の中に対して、いかにありのままに近い状態で見つめられるかどうか。
そんなことを最近はずっと考えています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。