最近見ていたリハックの動画の中で、「クズさ、人間の弱さを出していきましょう!」という話が語られていました。

あまりにも、今はその人間の弱さやクズさ加減を、表明しにくい世の中にあるからといった趣旨のお話。

ゲストは、Wasei Salonの中でも読書会が開催された『弱さ考』を書かれた井上慎平さん。

詳しくはぜひ、動画を直接ご覧になってみてください。非常に共感もできるし、とってもおもしろい内容でした。

https://youtu.be/_Ccuh2YNWqQ?si=wOoyes-sqhpHcOUH

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ただ、同時に「僕はそれって本当に?」とも思ってしまいました。「弱さを表明すること」は本当に正しいことなのか?

言いたいことはとてもよくわかるし、僕も現代に生きる人間のひとりで、出演されていた井上慎平さんの同世代だからこそ、強く共感もする。

現代における労働の問題を直接的に解決しようとすれば、そういう話の展開になることは自明だとも思います。

ただ、それっていうのは、強者や生産性の高いエリートがいるからこそのアンチテーゼというか、結局は同じ土俵の上に登ってしまっているように感じてしまうんですよね。

言い換えると、結局は同じ「ものさし」をあてがってしまっているなあと僕なんかは思ってしまうのです。

だからこそ「違う、そっちじゃない、そっちへ行ったら何か大切なものを失ってしまう」と思ってしまうんですよね。

じゃあそれは一体どういう意味なのか?今日はそんなことを考えてみたいと思います。

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で、これは先日、最所あさみさんがVoicyにゲスト出演してくれて、村上春樹の魅力について対話しているときにも、似たようなことが話題になっていて、ふと思ったことにも近いのです。


あの配信の中で最所さんは、村上春樹の『職業としての小説家』というエッセイ集を読んで、その中で「村上春樹は、負け顔をしない。もっと負け顔をすればいいのに!」と語られていました。

こちらも、本当に強く共感できる話です。

実際、僕もあの本を読んでいて、あまりのストイックさに驚愕してしまった側の人間なので、もっと弱みを見せてくれてもいいのになあと思いました。

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村上春樹さんは、雨の日も風の日も、毎日ランニングをし続けて、毎日同じ時間、机に向かって書き続けている。

そのストイックさは、逆に人を遠ざけてしまい、人間性を感じさせない。だから、最所さんの主張である「本人の負け顔が見えてこないと、作品への共感もむずかしい」というのは、ごもっとも。とてもよくわかる話です。

そして、そういう負け顔が上手なひとの作品やコンテンツが、いまの世の中で広く受けているというのも、現実問題として存在しているはずです。

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ただ、僕はそのような意見を聞きながら同時に思ったのは、村上春樹さんの視点って、もっともっと別のところにあると思ったんですよね。

一般的な勝ち負けの論理で言えば、もはや最初から人間は圧倒的に負けているという認識からスタートしている気がしています。

だからこそ、淡々と、なわけですよね。それが村上春樹的な生き方。

社会的に強い弱いとか、エリートやクズとか、そうやって認められるか否かという基準ではないんだろうなと思うのです。

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で、この話なんかも踏まえて、冒頭の問いに対して僕が今思うのは、弱さやクズさ、負け顔をさらけ出していきましょう!という呼びかけは、僕の中では未だにものすごく”強い状態”だと思うのです。

だってそれっていうのは、徹底的に「弱さ」を貫いた先のまた別の「強さ」を希求しているのですから。

それは、強さの転倒みたいな話だなあと思うのです。

まだまだ、戦いの螺旋のなかにいる状態にも思える。

ニーチェが語る「奴隷道徳」のような話に思えるのです。

ちなみに、ここで言うニーチェの「奴隷道徳」とは、自分自身の弱さや無力さを肯定し、その弱さを「善いもの」や「価値あるもの」と逆転させることで、強者に対して心理的・道徳的優位性を確保しようとするような価値観のこと。

つまり、戦いの螺旋から降りるフリをした結果として、逆に見事に戦ってしまっているなあと思うんですよね。

また、その論理で行けば、アドラーが言うように「一番弱い赤ちゃんが原理的に一番強い」わけです。赤ちゃんは、その弱さ故に世界を支配することができてしまう。

そう、これはなんだか支配関係みたいな話だなあとも思ったんですよね。

支配と言って言葉が強ければ、アテンションであり、誰が一番素直に愛しやすくて、結果として素直に愛されるのか、みたいな話でもある。

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でも、本当はそうじゃないんじゃないか、って僕は思うんです。

人間という生き物は最初からそもそもクズで弱い。そして「空っぽ」で空洞だから淡々と、なんだ、と。

その人間の空洞を活かした良導体としての機能を果たすための役割として、淡々と暮らし、淡々とはたらく必要があるんじゃないか、ということなんですよね。

そのときに、自らの弱さやクズさを認めること、他者のまなざしを意識して「負け顔」をしてみせるのは、逆によろしくない。

むしろそれは、良導体の役割を果たす際には弊害にもなり得てしまう。

そうじゃなくて、たとえ、そこには何の見返りがなかったとしてても、自分から自発的・能動的に愛してみようという話だと思っています。ただ、ここがどうしても伝わりにくいからむずかしい。

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この点、僕ら現代人は、「努力が正当に評価され、正しく報われる社会」を猛烈に求めているという話を思い出します。

でも、もし何もかもが揃っているホワイトな社会やホワイトな職場が仮に存在したとして、それでも結果が出せないときほど地獄なことはないはずなのです。

だって、そうなったらすべては自分が正しく努力できなかったことによる責任であり、完全な自己責任論が完成してしまうわけだから。

そして実際に成功した側にいるひとたちから、どれだけ上から目線で偉そうに語られようとも、その時はぐうの音も出ない。完全に服従するしかない。

一方で、努力が正当に評価されないブラックな企業においては、結果がでなければ「それは会社がブラックだから」の一言で終わる。「私のせいではない」という言い訳も可能となる。

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この話は以前『「正しい人が必ず報われて、幸福になる社会」が本当に理想的なのか?』というブログの中で詳しく書いたことがあります。


改めてこのブログでご紹介した社会学者・大澤真幸さんの話をここで少しご紹介してみると、旧約聖書に収録されている「ヨブ記」は、信仰深いヨブがなぜかずっと報われずに、不幸が降りかかり続けるという奇妙な物語なのかについて、大澤さんは語ります。

信仰深い人間が救われないという物語は宗教には不利であるはずですよね。でも、そこにも必然性があって、「正しい人が必ず報われる社会」という理想が本当に理想なのかと、考えさせてくれる余白があるからだというのですよね。

言い換えると、「正しい人が報われる社会」は一見理想的だが、実はとても残酷な面を持ってしまう。なぜなら、その世界の中で不幸な人は即ち、神が見放した「悪い人」とみなされてしまうからだ、と。

こうした社会では「自己責任論」や「勝ち組・負け組」の議論が加速をし、不幸な人々がますます非難される構造が生まれてしまう。

「会社」や「職場」という働き方においても、まったく同じことが言えるなと思ったのです。

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もちろんこの話は職場や仕事に限らず、家族なんかもまったく同じですよね。

僕らは、自分以外の家族の成員に対して「理想的な存在」であることをついつい求めがち。

具体的には、理想的な祖父母がいて、理想的な奥さんや旦那さんがいて、理想的な子どもたちがいて、それが幸せな家族像、いやそれこそが「普通の家族」だとさえ思っている。

でも、もしそんな家族の成員たちが自分のまわりに存在していたと仮定して、それでも幸せな家庭を築けなかったら、それはすべて、あなたのせいになる。

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で、もしそれが叶わないとなれば、逆にお互いの弱さをさらけ合っていこう、その結果、親しき仲にも礼儀ありという一線さえも超えてしまう。

そうじゃなくて、最初から決してわかりあえない他者がいて、良くも悪くも努力が正当に評価されない社会があっても、それでも淡々と向き合うことにこそ生きる意味があるんじゃないか。

ここに本当の意味としての、「弱さ」を受け入れて、突き抜けた先の意味があると思うのです。

そして、努力が正当に評価されない社会や世界であっても、ありのままに受け入れることにもつながっていく。

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さて、今日語ってきたような理由から、僕は「クズさや弱さを見せたほうがいい、もっと負け顔をしたほうがいい」っていうのは、やっぱり違うんじゃないのかなあと思います。

繰り返しますが、僕らはそもそも人間として圧倒的に負けている。クズで弱くて、負け顔がデフォルトなんです。

そのうえで、自分なんてない、ということを本当の意味で理解し、そこから損得や、結果や成果の有無にかかわらず、自らの意思で立ち上がって、淡々と行動し続けること。

そうやって自分という存在それ自体が、「空」洞であることを理解して、それでも、ヨブ記の中に出てくるヨブや村上春樹さんのように自分の信念に従った行動を取れるかどうかが、きっと僕らには問われている。

「ヨブはそうかも知れないけれど、村上春樹の場合は実際に成功しているじゃないか!」と思う人もいるかも知れないけれど、彼がすでに至るところで書いている通り、もし今のように成功していなかったとしても、きっと同じ行動を取っているはずで、僕も実際にそれはそう思います。

成功においても、それはたまたま偶然であり、時の運でもあるということなのでしょうね。

少なくとも、成功が約束されているなら「する」し、成功が約束されていないなら「しない」というのは、等価交換の論理であって、それは視点がズレているよね、というのが今日の結論です。

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いやいや、それを人は強さと呼ぶんだ!と思われてしまうかもしれませんが、僕はどちらかと言えばそれは「勇気」の類いに含まれると思います。

勇気的なものだからこそ、現状どんなステータスにあるひとでも、今この瞬間から実行できる事柄でもあると思っています。

言い換えれば、学歴や家柄、職場がたとえどんな状況であっても、今この瞬間から自分の意志ひとつで始められる。

それこそがきっと、祈りにも近くて、本当の意味での”はたらく”だと僕は思います。

昭和ストロングや、マッチョな思想だなあと誤解されてしまったかもしれないけれど、どうにかこの絶妙な感覚が伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。