以前もこのブログの中でご紹介したことがある、片づけコンサルタント・近藤麻理恵さんと経済学者の成田悠輔さんの対談の対談の中で、
こんまりさんが「ときめく」が生まれた背景を語られていて、これは身体感覚の話なのだと聞いて、なんだかものすごく納得しました。
頭で考える「対象物が好きかどうか」という基準よりも、自らの身体の内側が蠢くかどうか、に耳を澄ませてみる。
きっと、これも以前から何度も語る「初恋」の話と一緒なんだろうなと。まさに「思いがけず」からのオートマティックの話です。
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現代社会においては、頭で考えてしまうことでより一層複雑になりわけわかんなくなってしまい、迷ってしまう事柄が本当に多い。
その結果として、文字通り「片付かない」案件が山のようにあふれかえるわけですよね。
「とはいえ、これもいつか使えるかもしれない、役に立つかも知れない」という思考は、コスパ・タイパ思考の最たるものだと思います。
そうやって様々な経済合理性に促されて、自分基準ではなく他者基準に毒されて頭でっかちになってしまっている人たちに対して、視点を変えてみて、あなた自身の身体性のほうにその正誤の基準を持ち込んでみましょうという提案をしているわけです。
このような頭でっかちになった迷える人々に、明確な身体的な判断基準を提案した人というのは本当に強いなあと思います。
養老孟司さんが何度もご著書で書かれているように、良くも悪くもオウム真理教も身体性を忘れた現代の若者に、とても効果的な手法だったんだろうなあと思います。
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で、この話から僕らが学べることは、大きく分けてふたつあるはずです。
まずひとつは、クリエイターや提供者目線で、この気付きを自らのビジネスに活かすためにはどうすればいのかという話。
具体的には、近年よく語られる「異なるジャンルの掛け算」の話につながるのだろうなあと。
その掛け合わせという言葉の解像度を上げるならば、これは異ジャンルを選ぶときに「理性」と「身体性」をかけ合わせるとより効果的であるということなのだと思います。
もっと具体的に言うと、自分が普段いる場所にいるひとたちが、日常的に活用している視点の、真逆の視点を持ってくる。
経済合理性ばかりを気にしていてコスパやタイパばかりを判断基準にして、持ち物を増やしてしまう現代人に対して、身体感覚における「ときめき」という真逆の基準を設定したコンマリメソッドがまさにそうだったように、です。
そして、一方でたとえば飲食のように、身体性のほうがはるかに優位の業界に、調理を物理的、化学的に解析した視点を持ち込んだ「分子ガストロノミー」のような視点だってある。
別々のジャンルを掛け合わせるときは「理性×身体性」みたいなものがきっと大事だということです。
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これはつまり、文武両道を目指すということなんでしょうね。
「◯◯道」というのは、基本的には身体の使い方であるということでもあるわけなのだから、頭で行き詰まりを感じたときに、大人が「手習い」として茶道や武道を習うというのは、ものすごく理にかなっている行為でもある、ということだと思います。
そこで得られた気づきを、現代的なホワイトカラーの職業に活かすことができれば、スランプを脱出することもできる。もちろん、日々身体性に向き合っている方々は座学をしてみることで、スランプを抜け出せるというようになるという逆も然りだと思います。
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ただ、僕はもうひとつの学びのほうがもっともっと重要だと思っています。
それは具体的に何かと言えば、そのようなクリエイターや提供側の論理を理解して「世の中には、このようなハックがあることを忘れない」ということです。
つまりこのような構造それ自体を、ちゃんと認識しておくこと。
自分自身に起きている、このハッとする感覚とは一体何なのか。自分の中にある何が何によってハックされようとしているのかを、ちゃんと見定めること。
ハックという言葉に対して何かしらの違和感を感じてしまうひとは、純粋に何がいま自分の中で刺激されて、この突破口が切り開かれる感じがやってきたのかを懇切丁寧に観察してみる。
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もちろん、これは「何でもかんでも、目の前の出来事に対して斜に構えろ」というわけでは決してないです。
「その基準に乗っかるのは、そのあとでも遅くはないよね」ということをここでは主張してみたいんですよね。むしろ、斜に構えすぎても見えなくなってしまうこともある。
実際、僕自身も自らの断捨離の基準にいつも「ときめき」という身体性の基準を用いる場合は多いです。そうすることで、頭でどれだけ考えても分からなかったことが、スッと腹落ちすることがあるから。
だから、「あー、なるほど、これがそれか!」とまずはしっかり観察したい。ちゃんとそれらの基準を手なづけたうえで、その効果効能を召喚したいよね、ということです。
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もちろん、一方で「ときめき」という基準を提示されるほど「しらける」や「意味がわからない」という方もいるかと思います。
こういうときには、自分に一体何が欠落しているのかを、再発見する契機にもなり得るのかなと思います。
欠落というと、何かが欠損しているように思えるから言葉があまり良くないかも知れないですが、要は、自分の中で何の基準が、世間のベルカーブ曲線(正規分布)から逸脱しているのかがよくわかるということ。
そのうえで、なぜ自分自身がそのことに対して外れ値状態で、他人から見ると「不感症」のようになっているのかを、自然と観察できるようになるかと思います。
それがあまりにも現代社会に毒された結果として、合理的、経済的に考えて死んでいる感性なのかもしれないというふうに思えるかもしれない。(もちろんそうじゃなくて生まれつきの特性の場合もある)
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そして、もしかしたら、遠い幼いころの記憶を思い出して、自分にも「ときめき」という感覚があった瞬間のようなものを思い出せるかもしれないわけだから。
それは「初恋」の感覚を、思い出すのと全く一緒なんですよね。何か思わぬことをフックとして、そこでオートマティックに発動するもの。
忘れていた自分自身の「原初の体験や記憶」を思い出すあの感覚です。
ドラマ「First Love 初恋」も、それをわかりやすく記憶喪失というもので描いていたけれど、人間であれば必ず持ち合わせている「忘れ去られた記憶」というものが必ずある。
そこに共感した人々が多かったがゆえの、あのドラマのヒットだったのだと思います。
僕はそれを適切に思い出す契機としてこのような構造それ自体を用いて、それを自らのコントロール下におさめて欲しいなあと強く願います。
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つまりは、適度な距離感というものが、ここでもとても大事になるということなのでしょうね。
身体的な感覚ばかりが、ベッタリと自分自身に染み付いてそれを客観視できずに、なんでもかんでも「ときめき」が大事だと思っていると、すぐにスピリチュアル方面に流れしまい、キラキラ女子の戯言みたいになっていく。
一方で、理知的に考えて身体性を突き詰めると、オウム真理教のようなことも起こる。
繰り返しますが、体験した感覚を自ら冷静に観察してからでも決して遅くはない。その観察する時間を、丁寧に設けていきたいなと。
そのような状態を「あのひとは熱しやすく、冷めやすいひとだ」というように揶揄されることもあるけれど、それがものすごく大事なことだと、僕は思います。
昨日も書いたように学びを経て「自分自身」が変わったことを、自分自身で観察すること。
じゃないと必ず、身体か理性か、そのどちらかに強く引っ張られすぎて、戻ってこられなくなるから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2023/10/04 15:33