先日親戚のおばさんと電話をしたのですが、そこで家の宗派の話になったんですね。
おばさんはもともと真宗大谷派の家に生まれたけど、嫁いだことで曹洞宗に宗派が変わったのだとか。
でも、おばさんとしてはいまだに、幼いころから親しんでいた真宗大谷派のお作法とかがしっくりくるそうなんです。
だから、手を合わせるときなんかもつい「ナンマイダーナンマイダー」と唱えてしまうそうです。
そこでおばさんに、「ところで『ナンマイダー』の意味、知ってる?」と尋ねてみたところ、「おばあちゃんが事あるごとに使っていたのを真似しているだけだから、意味は知らない」と言うんです。
そんな感じで、結構みんな『ナンマイダー』を万能なおまじない的な感覚で使っているんですよね。
■□■「ナンマイダー」の意味■□■
そもそも「ナンマイダー」というのは、正確に文字にすると「南無阿弥陀仏」です。
「なむあみだぶつ」が崩れて「ナンマイダー」に変わったんですね。
この「南無阿弥陀仏」は、「南無」と「阿弥陀仏」に分解されます。
「南無」は動詞で、「~に帰依します、~に委ねます」という意味です。
「阿弥陀仏」は名詞で、「仏の中でも一番えらい仏」のことです。たくさんいる仏の先生として、みんなに教えを説いています。
つまり、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏にすべてを委ねます」と阿弥陀仏に対して宣誓している言葉なのです。
■□■宣誓する意味■□■
なぜそんな宣誓をする必要があるのかというと、それは阿弥陀仏が立てた誓いの中に答えを見出すことが出来ます。
阿弥陀仏はいくつか誓いを立てているのですが、そのうちのひとつに「私の名前を呼ぶ者はすべて、浄土に連れて行く」というものがあるのです。
浄土とはすなわち極楽のことなのですが、極楽に行くには実は条件がひとつあるんですね。
それは「仏であること」です。
「仏」というのは言い換えると「悟りを開いた人」のことです。
そうなんです、極楽は悟りを開いた人しか入ることが出来ない狭き門なのです。
だから昔の僧たちは、いっぱい修行して悟りを開こうとめっちゃ頑張ったわけです。
でも、自力で悟りを開くというのは超難しいことらしくて、実は生きているうちに悟りを開いた人というのは、歴史上で一人しかいないんですね。
それが「ブッダ」なのです。
「じゃあみんな極楽にいけないじゃん!」となるところを、昔の人が何とかして考え抜いて出来た思想のひとつが浄土教の教えです。
色んな文献を読み漁って「阿弥陀仏は『自分の名を呼ぶ者は極楽に連れてく』って誓っているぞ!それを信じれば、生きてるうちは無理だけど、死んだら極楽に行けるに違いない!」とひとつの答えに辿り着いたのです。
その、誓いを信じるための意思表明として「南無阿弥陀仏」(念仏)という言葉が生まれたというわけです。
■□■日本における念仏の発展■□■
このような教えは浄土教という宗派の思想なのですが、元は中国で生まれました。
それを日本に持ち込んだのが源信という人で、それを体系化して広めたのが法然で、さらに爆発的に布教させたのが親鸞です。時代的にいうと鎌倉時代くらいです。
ちなみに源信は一説によると、「生涯で20億回も念仏を唱えた」と言われています。一日10万回だとしても55年かかります。かなり狂信的ですね。
法然や親鸞はそんなに回数にこだわらなかったみたいです。「自分が納得する範囲で念仏を唱えれば極楽に行けますよ」と。
それによって民衆はすごく救われたわけです。今までの仏教の教えだと、善行をめっちゃ積まないと極楽に行けないとされていたんです。
善行というのは、立派な寺や仏像を立てたり、修行に打ち込んだりすることで、一般人には到底出来ないことだったんです。
それが、「そういうのいいから、念仏さえ唱えれば極楽行けるよ」と言われたわけですから「えーマジで?!超すごいじゃん!」と歓喜して、民衆に広まっていったわけです。
■□■なぜ極楽に行きたいのか?■□■
しかしそもそも、なんでみんな極楽に行きたがっているのか、極楽には何があるのか、というのが疑問として残ると思います。
極楽とは「幸福が満ち満ちているところ」と定義されています。
めっちゃ煌びやかで、清らかで、万人にとって住み心地バツグンらしいです。
それは民衆は憧れますよね。現世では貧しい生活を余儀なくされているのですから、せめて来世に希望を持ちたいことでしょう。
でも。
ここで僕は引っかかることがひとつあるのです。
「じゃあ僧たちも自分が幸せになることを考えて修行していたの?」と。
なんかそれってしっくりこないなぁと思うわけです。
■□■法然の場合■□■
そこでいくつか文献を読んだところ、一例として、法然がどうして極楽に行くことを望んだのかの答えを知ることが出来ました。
僕にとってとても腑に落ちる、素晴らしい思想がそこにはありました。
法然は、念仏を唱えることによって、死後、仏となり極楽に行くことは通過点でしかないと捉えていたのです。
どうやら仏という存在にも寿命というものがあって、仏としての生を全うするとまた仏として生まれ変わることが出来るらしいのです。
で、法然は極楽において阿弥陀仏から教えを説いてもらって仏として成長して、その上で次の生で人間界に仏として生まれ変わってあまねく人々を救いたいと考えていたのだそうです。
本当は現世の人々を救いたいけど、今の自分にはその力が足りない。だから、来来世に託すことにしたのです。
来来世までをも見据えていたからこそ、法然の言葉は現世の人々の心にも深く刺さったのではないかなぁと思います。
このような考えには僕も平伏してしまいました。僕なんて現世の、自分の周りを幸せにすることぐらいしか考えられていないですから。
■□■現代にどう活かすか■□■
法然の深淵な慈悲の精神を学んだうえで僕も今いちど、自分はどう振る舞うべきなのか、というものを考えなくてはならないなと思いました。
でもいまどう考えても、「僕の人生は僕自身が幸せになって終えられればいい」としか考えられないんですよね。
でも、この自己中心的な願いを、万人にも拡張しうるヒントが、ヨガの思想にあると最近知りました。
実は仏教もヨガも、インドの思想を根っこにしたその派生形のひとつなんですね。だから何かと通ずるところがあるんです。
ヨガの思想においては、自己というのは「観測者としての意識」に過ぎないというのです。
ざっくり例えて言ってみれば、自分の精神や肉体が飛行機で、自己とはその飛行機のパイロットで、普段は自動操縦しているに過ぎない、というわけです。
自動操縦なんだから技術もくそもないわけです。
「自己」というものがそういうものだとすると、自分自身の自己と他者の自己というのは大差がない、っていうか一緒だよねという考えになります。
つまり「すべてはひとつ」なのです。
そう考えると、「自分が幸せになること」というのは「すべてが幸せになること」そのものじゃないですか。
とまぁ、頭ではなんとなく合点がいっているようでいっていないようで、というのが僕の現在地になります。
もっともっと知識を深めて、考えて、試してを繰り返して、いつか自分なりの思想を体系化出来たらなと思っています。
勉強の日々は続くのです。一生。
だからこそ人生は楽しいのだと、僕は思います。