私たちが自分以外の他者に対して、お祝いの言葉を伝えたいとき、それは徹頭徹尾「ポジティブな感情」からだと思います。
そして、それを受け取る側も素直に受け取ることが一般的です。
でも、このやりとりが当事者間で行われる中で、必ず必要になるものがあります。
それが、祝う側と祝われる側の「共通の基準(ものさし)」です。
なぜなら、お互いにとって「◯◯は祝うに値することだ」という前提の共通認識が存在しなければ、そこにコミュニケーションは成立しませんからね。
たとえば唐突に友人から、「昨夜、白米食べられたんだってね!良かったじゃん!」と言われて「これ、そのお祝いの品だから受け取って!」と言って金一封を贈られても、多くの人にとっては何が何だかわからないはずです。
そうではなく、「結婚した」とか「子供が産まれた」とかみんなの中で「それは祝うに値すること」という共通認識として明確な基準が存在することでなければ、そもそも「祝う」というコミニケーション自体が成立し得ないのです。
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でも、この社会一般的な「共通の基準(ものさし)」を私たちが日常的に用いるがゆえに、必ずそこからこぼれ落ちるひとたちも生まれてしまう。
「結婚できて良かったね、子供が産まれて良かったね」は、それが何かしらの原因で実現できない人たちに対しては、呪いの言葉になりうる。
たとえそれが私宛でなかったとしても、世間一般的な基準やものさしがそうなってしまっている以上、それはそのようなマイノリティの人々にとっては、無条件に呪いとなって存在してしまうわけです。
そして、そのこぼれ落ちた人たちの中から、ちょっとしたきっかけで、その発言を行った個人に対する怒りになったり、その基準を用いてる世間一般に対する怒りになったりしてしまう。
この現象は、たとえどれだけ「共通の基準」の範囲が広がったとしても(多様性が促進されたとしても)、必ずどこかで、そのラインからはみ出てしまうひとは生まれてしまう。境界線を定めてしまう以上は、それは決して免れることはできないのです。
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きっと、世の中のさまざまな問題や争いごとは、その一番最初の発端というのはすべて、個人の純粋でポジティブな「祝いたい」という感情(エネルギー)からスタートしているのでしょう。
そのポジティブな感情が世界に対して発露されることで、バタフライエフェクトのようにどんどんと大きく変化していき、最終的には誰かにとって辛く大きな呪いへと変わっていく。
つまり、世界の呪詛はすべて、祝福から生まれているわけです。
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さて、この事実に気づけたからといって、だから私たちに何ができるということではないかと思います。
それは、僕らが毎年起こる台風を止めたいがために、地球の裏側にいる一匹の蝶の羽ばたきを止められないのと同じように。
でも、この仕組みや構造を最低限理解しておくことで、世界の見え方や捉え方ももしかしたら少しだけ変わってくるのかもしれないなと。
そんなことを、昨夜このサロン内で開催された『断片的なものの社会学』の読書会の中で考えましました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
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2022/03/18 11:05