現代人の僕らは、あたりまえのように、自由と平等、この2つの概念を同時に実現すること、それが目指すべき理想的な世界観なのだと信じて疑わないはずです。

でも、本来、このふたつは相容れないものであるはず。

言い換えると、この2つの概念は、同時に求めた場合において必ず衝突して当然なのだと思います。

そして実際に、それが現代社会の様々な問題も引き起こしてしまっている。

この点について、以前もご紹介したことのある内田樹さんの新刊『街場の米中論』という本の中に、アメリカの話をベースにしながら、とてもわかりやすく膝を打つような話が書かれてありました。

以下で、少し本書から引用してみたいと思います。

アメリカは「自由」と「平等」の根源的葛藤を抱え込んでいます。この二つはアメリカの統治理念の根本をなす原理なのですが、 自由と平等は食い合わせが悪い。自由というのはいかなる外的な介入も退けて、すべてを自己決定し、その帰結についてはすべて自己責任を負うという生き方のことです。これがアメリカ人が理想とする生き方であることはすでに申し上げました。でも、同時に市民社会が健全に機能し、国が豊かになり、文化的に成長してゆくためには、平等という原理を導入することが欠かせません。国力を増大させ、集団的に生き延びてゆくためには、どこかで公権力が介入して、富者の私財の一部を取り上げ、強者の私権の一部を抑制して、平等を達成するということをしなければならない。 強者の市民的自由を部分的に制限することなしには社会的平等は絶対に実現しません。


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じゃあ、そもそも、このふたつは両立することは最初から不可能なのか。

そんなことはなくて、むしろこの葛藤に晒されることが、きっと何よりも大事なんだろうなあと思います。

内田さんも、アメリカという国に取り柄があるとすれば、それはこの「自由と平等」の葛藤を苦しみ続けた歴史的事実のうちにあると言います。「葛藤のうちで人間は成熟する、それはたぶん集団についてもあてはまるのだ」と。

ここで少し話はそれますが、年末年始に読み終えた小倉ヒラクさんの『オッス!食国 美味しいにっぽん』にも、日本食の文化これほどまでに栄えたのは、環境面の制約があまりにも大きかったから、という話が書かれてありました。

日本各地の土地の気候風土によって、その土地で育てられた限られた食材の中でなんとか食事を豊かなものにしようとしたからこそ、発酵を中心とした食という文化が花開いたのだ、と。

この話は、日本人ならきっと誰もが納得するところだと思います。

つまり、僕ら人間が、絆や人々がつながるための依代だと思っている「文化」というもの自体がそもそも、自由だけでも生まれないし、平等だけでも生まれない、その葛藤の間に咲く花のようなものでもあるわけです。

この矛盾や葛藤というのはきっと、その花が育つための土壌のようなものと捉えるべきなんだろうなあと。

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とはいえ、矛盾するものにひたすらずっと晒され続けていると、常に葛藤状態に陥り、身が引き裂かれるような思いを味わい続けるようになってしまいます。

それは、単純に辛い。

そうやって辛い状況下に居続けてしまうと、人はその状況を無理やり肯定しようと「認知的不協和の理論」のような結論に行き着いてしまうわけですよね。

そして、カルト宗教のような超越的なものにも、簡単に騙されてしまう。

この点に関しては、先日放送されていたNHKの「100分de宗教論」がとてもわかりやすい解説をしてくれていたので、ぜひ合わせて観てみて欲しいです。


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ということで、無理やり自由と平等をつなげようとすると、やはり、ひずみやゆがみが生まれる。

現代社会を見回してみても、まさにそのような状況が至るところで起きていますよね。

自由を主張する側でも、平等を主張する側でも、自分の意見に固執するあまり、カルト宗教まで行かずとも、お互いにアクロバティックな論理を展開してしまう。

自由と平等の間には、本来それをつなぐための適切な架け橋というものが必要で、それがきっと今日のタイトルにもある通り、「友愛」なのだと思います。

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内田さんは先程ご紹介した本の中で、フランス革命に「自由と平等」と共に「友愛」があった事実に触れて、それがとても優れた着眼点だったと語ります。

以下で本書から再び引用してみたいと思います。

思い出して欲しいのは、フランス革命の標語は「自由(liberté)」と「平等(égalité)」の他にもう一つ「友愛(fraternité)」という第三の原理を掲げていたことです。自由と平等という食い合わせの悪い原理を調停するために、友愛という「第三の原理」を持ち込んだ。これはすぐれた着眼点だったと僕は思います。     自由も平等もかなり暴力的な理念です。自由をどこまでも突きつめれば「万人の万人に対する闘争」の自然状態(無政府状態)に至る。平等を徹底しようとすれば、全体主義監視国家が出現する。どちらか一方だけを選ぶということはできません。     友愛はその対立を調停する第三の統治原理です。友愛は同じ共同体の仲間に対する気づかい、親切のことです。


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この第3の原理「友愛」を持ち出してきて、自由と平等の葛藤に橋をかけようとすること、それがいま本当に大事な視点だなあと僕は思います。

「自由」という第1原理と、「平等」という第2原理をそれぞれ先鋭化させていっても、対立や葛藤というのは深まるばかり。

また、それぞれを実践する主体や、その次元も異なるはずなんです。内田さんは、自由の主体は「個人」であり、平等の主体は公権力、つまり「国家」であると言います。

しかし、友愛の主体は、その中間にある「共同体」である、と。自由主義の暴走と平等主義の暴走を中間共同体の常識が抑制するのだと。

だからこそ、いま僕ら若い世代が取り組むべきは、この「友愛」のための「コミュニティ」をしっかりと丁寧に再構築していって、それらを淡々と改めてつくり出すことなのではないか。

そして、それが昨日も論じた「やり取り」に直接つながる話だと僕は思っています。

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言い換えると、議論や熟議を通した、イデオロギー論争に固執しないこと。

そうではなくて、もっともっとプラグマティズム的に、個々人が共同体の中で実験や実践をしてみることをまず優先し、その実践のなかで生まれてくるコミュニケーションにおいて、敬意と親切心を添えた「やり取り」を増やしていくこと。

その循環を構築していくことのほうが、いま圧倒的に重要なことだと思います。そして、これこそが、まさに「友愛の精神」を持つこと、そのものにつながっていくはずで。

その時にはきっと「距離感」も大切です。言い換えると、あまりに大きすぎる共同体でもダメなんです。自分が、確かに相手に対して貢献できているという実感が何よりも重要だから。

言い換えると、共に失敗し、共に成功し、それらを一緒に味わっているという感覚、まさに手探り状態から生まれる、手触り感のようなもの、それが結果的に、目の前のことに対する確かな「手応え」につながるのだと思います。

いま、復興するべきそのようなコミュニティであり、共同体としての役割は、まさにここにあるんじゃないでしょうか。

そして、ここに今、従来的なデモクラシーだけではなくて、web3の文脈、具体的にはトークンエコノミーなど新しいテクノロジーも実装されてきていて、広義の「経済」にもつながろうとしているんだろうなあと。

つまり、感情だけではない、確かな「血液」のようなものもそこに流れ始めるわけですよね。

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共同体に集う人全員に、必ず、それぞれにできることがある。それらをちゃんとつなぎ合わせていくこと。

宇野重規さんの『実験の民主主義』の中にも書かれてありましたが、これからの共同体、いわゆるDAOのような組織においては、「何ができる?」という問いから始めて、その場にいる人たちが「できること」をどう紡ぎ合わせていくのかのほうが大事であるはずで。

そして、さらに重要なのは、「何もできない人はいない」というふうに逆転の発想で考えられるようになるという点であるのだ、と。

「それぞれが、自分にできること」を持ち寄って、実験や実践から組織をボトムアップ的に構築していく。

トップダウン的に、議論や熟議を繰り返すよりも、この体験を共にくぐり抜けることのほうが、2024年に入った今、圧倒的に重要になってきているように思います。

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手探りからの手触り感と、それらを通じた確かな手応えを感じられる空間。そこに血液の通ったあたたかさ、のようなものがあれば尚良し。

そのための空間を、これからも淡々とつくっていきたいです。お互いがお互いに感謝をし合って、みんながイキイキするような空間を目指して。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。