僕らは、メタ認知することを無条件に良いことであると思いがちです。

近年、リベラルアーツが声高に叫ばれていることや、ビジネス書の文脈においても「教養」がブームになったことが、それを強く物語っていると思います。

これらは基本的にすべて、メタ認知を奨励するようなものでもありました。

でも最近よく思うのですが、今のような社会になってしまったその要因こそがまさに、この「メタ認知」ブームにもあったような気もしています。

つまり、意外とメタ認知が、現代社会の諸悪の根源でもあるんじゃないのかなと。

それは一体どういうことなのか。

そんな話を少しだけ、今日はこのブログに私見を書いてみたいと思います。

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さて、というのも先日、哲学者・東浩紀さんがとある対談番組の中で「メタ認知するとは、すべてを政治的に捉えることだ」というふうに語られていて、本当にそのとおりだなあと膝を打ちました。

そして東さんは、これは西洋哲学の呪いでもあるというふうに語られていました。だからこそ西洋哲学は、政治こそが善であるというふうに語りがちなんだと。

言われてみると確かにそうで、プラトンの時代から、近年だとハンナ・アーレントの有名な『人間の条件』まで、冷静にメタ認知できること、そしてそのメタ認知の力を用いて、政治に参画することが良しとされているような世の中です。

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では、そもそも、なぜメタ認知するとすべてが「政治」なってしまうのか。

それは、相手の言葉のなかに、必ず言葉にはならない何らかの「メタ・メッセージ」を読み取ろうとするからですよね。

今なら、地震によって被災した地域への寄附、その寄付を終えた宣言のようなSNSの投稿に対する、世間の反応なんかはすごくわかりやすい。

ただの寄附行為も、みんながそこに対してメタ・メッセージを読みとろうとして、その背後にある政治的な理由を探って、それを見つけた瞬間に「ダウト!」って叫びたくなってしまうのだと思います。

また、自分がそうやって、他者の行動に対して、常にメタ的な視点で眺めているから、自分の行動も自然とメタ視点で、眺めてしまうわけですよね。

いや、むしろ最初の出発点は、こちら側かもしれない。

つまり、自らがメタ認知をしようとしているから、相手にも同様にそのような視点があることに気が付き、発せられている言葉以上のものを、そこに読み取ろうとしてえしまうわけですよね。

これは昨年人気だったドラマ「ブラッシュアップライフ」の中でも、頻繁に描かれていた話であって、メタ認知とメタメッセージの嵐のドラマでしたが、それが共感を読んだというのはまさにそういうことなんだろうなあと。

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そうすると、純粋に自分が気軽に行動を行うことができなくなります。だって、相手から政治的な目線で自分の行動を読まれていると思うわけですから。

まさに、自分の首を自分で締めるような状態にも陥るわけですよね。

現代はそうやって、みんなが必死にメタ認知をし、お互いに「政治活動」をしているような状態なのだと思います。

だからこそ、お互いの「真善美」を巡って政治的な対立も頻発してしまうし、そこに政局のようなものもドンドンと生まれてくる。だから「政治と金」の問題にも直結するわけです。

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教養とリベラルアーツが流行った結果として、インテリや、人文系の人々だけではなく、ビジネス文脈の人々、特に現場レベルで働いているひとたちもどんどんとこのメタ認知に参入してきた。

しかも厄介なことは、ビジネスに活かすための誤った目的意識を持った「リベラルアーツ」が流行ってしまったことも、問題だなあと思います。

つまりそこには必ず打算的な自らの「メリット(主に金銭的な)」を求めるようになる。具体的には、ジャック・アタリの「合理的利他主義」のような突飛な解釈が尊ばれるようになるわけです。

世間ではそれこそが賢いことになっているわけですよね。

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もちろん、ここでは、そのようなメタ認知を推奨し、それを布教した人たちが悪いんだということが、言いたいわけではありません。

そこはくれぐれも誤解しないでいただきたい。

これ自体は、きっと誰も予想できなかったことだと思います。

メタ認知できることと、メタ認知できないこと、どちらが人間として最良なのか、と問われれば、間違いなく誰もが前者のほうがいいと考えるに決まっている。

繰り返しますが、それはギリシャ時代から語られてきたような事柄ですから。

でも、個人と社会では、また別の問題が起こる。

あくまでインテリたちの「政治」であれば、それは尊ばれる行為だったのかもしれないけれど、猫も杓子も、メタ認知を意識し始めると、社会においては逆にネガティブに働くのかもしれない。

これはたとえるなら、誰もがメディアを持てるような時代に変化したとときに、個人がメディアを持った方が良いか否かで問われたら、間違いなく持ったほうが良いに決まっている。

だけれども、その個体が社会において集団で集まってしまったら、世界は有象無象の玉石混交状態になってしまって、ジャーナリズムが全く機能しなくなったのと、同じような論理だと思います。

このような形で、風が吹けば桶屋が儲かるというようなことが起きてしまうんですよね。

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一億総・発信者時代を経て、その発信を受けてみんなが騙されないようにと学習をした結果、一億総・メタ認知時代が到来してしまったのがまさに今。

でも、それこそがこの殺伐としたインターネット空間を生んでしまったことは間違いないような気がします。

現代のSNSは、人間がそうやってメタ・メッセージを読み合うことで、お互いに疑心暗鬼になって、より政治的な闘争を至るところで行うようになりました。またその議論が一番アテンションを稼ぐことにもつながる。

だから、アルゴリズムもそれを促進するようになってしまう。ますます負のスパイラルにハマっていく。

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そして今や、AIやフェイク動画など、更に立ち止まって考えなければいけないフェーズは、対人間相手だけではなく、対AI相手に対してもドンドン増えてきてしまっているわけですよね。

そのたびに、一度立ち止まって刺激されている自己を俯瞰的に眺める「もうひとりの自己」の視点が必要であって、その背景をちゃんと冷静に読まないといけない。

でも、それが、どれだけむずかしいことなのか。

そのような葛藤状態はあまりにも辛い。だから昨日も書いたような「認知的不協和の理論」にもたどり着くわけです。

そして、宗教のような超越的な力だったり、もしくは人工地震だと騒ぐような陰謀論だったりにも、すがりたくなってしまう。

そしてそれを見て、あの連中は科学的な推論もできない人間だと批判をしているインテリ層が、またメタ認知をして、政治的に上位に立とうとするわけです。

これを万人の万人による政治的な闘争と言わずして、なんと呼ぶのでしょうか。

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ここまでの話を、一旦まとめていみると、メタ認知していることを、そもそもメタ認知しなければいけないということです。

でも、ここでむずかしいことは、それは当然無限後退するわけで。

メタ認知していることを、メタ認知していることをメタ認知する・・・というふうに。

結局のところ、この階層化が人よりも得意な人間が、裏の裏の裏の・・・となり、世界がライアーゲーム化して帰謬法を用いる人間が多発するに決まっています。ますます悪化の一途をたどるだけ。

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だから、どこかでこの「メタ認知」自体を、ストップさせないといけない。

いうなれば、相手の本当の心理、そのメタ・メッセージを読み合わなくても良いようにすることのほうが何よりも重要で。

相手の発言を字義通り解釈をしても問題ない、その発言を素直に信用できるようになる状態をつくりだすこと。

果たしてこの喩えが、わかりやすいかどうかはわからないけれど、ゴンとキルアや、ルフィとナミ、もっと古ければ孫悟空とブルマやクリリンのように、これは関係性の問題なのだと思います。

いわゆる現代人的な思考に囚われているキルアやナミやブルマのような存在が、ゴンやルフィや悟空と出会うことによって、少しずつ氷解していくような感じ。

それが、コミュニティ内での「信頼関係」の為せる技だと思うのですよね。

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知らない者同士が出会えば、どうしても、メタ認知している人間が、相手をよりも有利な立場になれることは当然で、仕方のないことです。

字義通りに受け取る人間というのは、市場やマーケットにおいては鴨がネギを背負ってやってきたみたいな話ですから。

ずる賢いとは、まさにそういうこと。

でもだからこそ、メタ認知を過剰に行わなくてもいい場所というのが、いま本当に大事なんじゃないでしょうか。

僕はそうやって、メタ認知をして相手のメタ・メッセージを過剰にやり取りしなくてもいい空間をつくりたい。

今年に入ってから、何度も繰り返しお伝えているように、それよりももっとプラグマティズム的に「実験」や「実践」を行う楽しさのほうを優先したい。

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「お前が言うな」と思われることを百も承知のうえで、あえてメタ認知をしない、しなくても済む、そのための関係性づくりが、今年はとっても大事になってくると思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。