欠点とは、訓練されて習得されるものではありません。

一般的には、すぐに取り繕われてしまうものです。

そうやって本来ならば修正されてしまうところが、そのまま残ってしまっていることが、近年においては逆説的に本物の証になっている。

たとえば、訓練されたホテルマンが「本音を話している」とは誰も思わないように。

近年のように、なんでもかんでもすぐに修正されてしまうようになると、より一層その欠点が他者との差別化(本物の証)につながるようになってしまっている。

だからこそ、そのことに気がついた人たちから、欠点をむしろ大々的に喧伝するようになってきたように思います。

ドナルド・トランプ氏の言動なんかはその最たる例だと思います。

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とはいえ、欠点を欠点だとわかりながら、そのまま放置しておくのもなんだか違う気がします。

もちろん、すべてを完璧にしようと目指すのも違うし、そもそもそれは無理な相談です。

大切なことは「欠点が一体どんなメッセージを発しているのか」だと思います。(他者に対しても、自分に対しても)

そして、そのメッセージが自らのアイデンティティに紐づいていて、より好ましいと考える状況に近づくために寄与しているかどうかを、冷静に見定めること。

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この点、客観的に「正しい」ことなんてこの世には何一つ存在しません。

すべては自己の目的(向かいたい方向)によって「正しさ」が後付けで決まるだけで、その目的に役に立ってさえいれば、どれだけまわりから非難されようとも、その欠点は私にとっての利点であり、修正する必要なんかない。

むしろ、欠陥自体を後から習得することが難しい特徴だと捉えれば、それこそが天から与えられた一番のギフトだと考えることもできます。

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にも関わらず、私たちは世間的な「正解」や「常識」ばかりを常に追い求めてしまう。

これは「行きたい目的地と、そのために選ぶ乗り物」の例で考えると非常にわかりやすいかと思います。

世間的には「新幹線が安全で優れた乗り物だ」と言われていたとしても、日本の外に出たい場合には、新幹線では絶対に辿り着けませんよね。

でも往々にしてひとは、「乗り物として一体何が優れているか?」という議論ばかりに終始してしまいます。

でも本来、その正しさは目的地が決まってはじめて定まるもののはずなのです。

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そして、世間一般的に欠点と認定されるようなことも、私宛のギフトだと思っている者同士では、お互いに相手の欠点を否定し合いません。

むしろ、相手の欠点を帯びた視点から見えている景色を共有し合い、おもしろがり、そこから学び合う。

一方で、努力して欠点を克服することが「正しさ」だと考えるひとたちは、欠点は克服できる「異常」だと判断し、世間一般の「普通」の状態にするために、批判し合い、無理やり矯正し合う。

上記の乗り物の例で言えば、何がなんでも新幹線に乗せたがる。「飛行機なんて狂気の沙汰だ!」と言わんばかりに。

近年のジェンダー問題なんかは、とてもわかりやすい例だと思います。

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最後にまとめると、欠点(欠陥)こそが本物かどうかを見分ける指標になってきた。

その上で、どうやって自己の欠点と向き合っていくのか?

自分の向かいたい方向性と、その目的に見合っているかどうかに照らし合わせて、冷静に見定めること。

この時にくれぐれも世間一般の「正解」に頼らないことです。

そうすることで、お互いに欠点をギフトだと捉えている者同士で学び合い、人間関係も円滑で良好な関係性が生まれてくる。

そんなことを考える今日このごろです。