現代を生きていると、過去のしがらみにとらわれないで生きることが良しとされています。

具体的には、「家」や「地縁」などに縛られないことが「私らしい人生を歩むことになる」と。

そのために近代社会でつくられた仕組みも、たくさんあります。個人には人権としての「自由」を認め、国家には同時代を生きる人々だけで勝手に意思決定できる「多数決原理」が導入されました。

そうやって「私たちはもう過去のしがらみとは縁を切りますよ!」と声高に宣言してきたのが近代です。

でも、それは「未来との縁も切る」という意味でもあったように思います。

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なぜなら、過去と縁を切ることで、そこに過去から受け取ってしまったという「健全な負債感」が存在しないからです。

何度もこのブログで書いたきたように、自分が敬ってきた「ご先祖さま」に自分自身もなれるという確信が持てたからこそ、昔の人はそこに時代を超えた「相互性」を感じ取ることができた。

言い換えると「受け取ってしまった」という健全な負債感からしか、未来への健全な贈与はうまれてこないのだと思います。

受け取った感覚がないものを、返す(次に繋ぐ)義務はない。

生まれた瞬間、私の目の前に落ちていただけです。それは私の所有物。

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また、社会活動家のようにどれだけ理性的に、道徳的に、未来に対して責任を負ってみようとしてみても、それはゼロからプラスを作り出す「自己犠牲」にしか感じられない。

現代の世界中のいたるところで主張されている「未来の人間の資源を奪うな!地球の未来を守れ!」という運動が本当に恐ろしいなと思うのは、そんな自己犠牲しか求めないから。

つまり、ものすごく理性的で道徳的な「尊い活動」になってしまっているのです。

僕はそれがとても危ういことだと感じます。

なぜなら、自己犠牲をはらむ活動や運動というのは必ず「純化」に向かうから。

「私はこんなに犠牲にしているのに、アイツらはこれだけしか犠牲にしていない!」と。

現に二酸化炭素の排出量で、国ごとの言い争いはまさにそのような様相を呈してしまっている。同じ主義主張の者同士が、そうやってお互いに批判し合い、潰し合う。

昔の社会主義などがまさにそうであったように。

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つまり、ちゃんと過去から受け取って、まず自分の中に圧倒的な負債感(マイナス)をつくらなければ、未来への贈与はすべて自己犠牲になってしまうのです。

逆に言えば、未来の人々の資源を奪わず、子孫繁栄で繋いでいくためにこそ、過去に縁を感じるようにと昔の人たちは仕向けてきたのだとも言えそう。

だからこそ、個人の「自由」を多少奪ってでも、「家」という「過去から未来まで連綿と続く共同体」のなかで個人を縛ったのでしょう。

幼いころからずっと口すっぱく言われ続けていれば、嫌でもどれだけ大きなものを自分たちが受け取ってしまったのかを気付かされますからね。

現代でも、「家」制度が続く歌舞伎の家に生まれた市川海老蔵さんや中村獅童さんなんかを見ているとそれはよく伝わってくる。

そして、歌舞伎のような優れた伝統芸能だけでなく、ありとあらゆる人の手が加わったものは、歌舞伎と同じぐらい大きな贈り物だったはずです。

でも、過去と縁を切ることで、僕らはまったくソレに気づけなくなってしまいました。

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各人が過去との縁を繋ぎ直し、その圧倒的な負債感をまず背負い、それを埋め合わせていくように未来へ贈与していくほかない。

それだけが唯一、自己犠牲から「純化」に向かわないための道のように思います。

自分達の中に時代を超えた「相互性」の感覚を新たに生み出していく。もちろんそれはもう、昔のような「家」や「地縁」などでは不可能です。

これまでにはなかった全く新しい形で、過去との縁を再形成していくしかない。

それがどんな方法になるのか? そんなことばかり考える今日このごろです。