最近、人生で何度目かの仏教ブームが自分のなかで到来しています。

仏教関連の書籍を読み漁っているのですが、そのなかでも禅僧・南直哉さんの『「悟り」は開けない 』という本が、とってもおもしろかったです。

僕は、禅僧・南直哉さんの考え方というか、その「問いの立て方」が、大好きです。

以前もこのブログの中で養老孟司さんの対談をされていた内容をご紹介したことがあります。


ただ、南直哉さんの本は、ご本人もこの書籍の「あとがき」の部分で書かれていたましたが、本当に誰にでもわかりやすく書かれた平易な文章の本か、もしくは仏教や哲学、思想の専門用語を躊躇うことなく用いられた専門書のような本か、その二択になりやすい。

前者では、ちょっと物足りなく感じてしまうし、後者だと、初見の場合にはまったく刃が立ちません…。多くのひとが読み始めたタイミングで、きっと挫折してしまうかと思います。僕も、見事に何度か挫折しました。

でも、今日ご紹介する『「悟り」は開けない 』という本は、ちょうどその中間、どちらかと言えば平易で読みやすい文章の部類に入るので、ぜひともみなさんにもご紹介してみたいなあと思いました。

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さて、この本の中で、僕が特に印象に強く残っているのは、「変化」に関するお話なんです。そこからの「変わらない自己」という幻想のためにつくられた「神」と「所有」のお話。

過去に何度も語ってきた「諸行無常」や「諸法無我」にまつわるようなお話ではあるのですが、南直哉さんの説明が非常にわかりやすかったので、ここでも引用してみたいです。

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まずひとつ目は、「変化」を認識するためには「変化しないもの」を設定しなければ不可能です、というお話です。

早速本書から少し引用してみます。人間と動物の「老病死」の感じ方の違いについてのお話から始まります。

ネコも「老」いないし、「病」まないでしょう。次第に 四肢 が動かしにくくなり、体調が悪化していくことは感じているでしょう。しかし、それは感覚的な不快であっても、「老」「病」とは認識されません。だから嫌がることもできません。     
人間と動物の違いは、我々が老・病・死を認識し、 厭うことができるかどうかです。     すると、ここにさらに根本的な問題が出てきます。 「老いていく」「病気になる」「死んでしまう」という〝変化〟を認識するためには、 変化しないもの を設定しなければ不可能です。すべての「変化」の認識は、変化しない何ものかについての「変化」です。「〇〇が変化する」というとき、「〇〇」自体が変化するなら、「変化が変化する」という無意味な 言 表 になってしまいます。     
ゆえに、老いる前と後を貫通する同じ「私」を設定できないなら、「私は老いた」という認識は成り立ちません。認識が成り立たなければ、老いを 嫌悪 することも、「若いままでいたい」と欲望することもできません。


これは本当にそうですよね、個人的には目からウロコでした。

つまり、「”一貫して変わらない私"の存在が、老・病・死の苦しみの大前提」というわけです。

では、この「一貫して変わらない私」自体は、本当に存在するのか。

その一貫性を根拠づける「何か」があるのか、それが次の問いになってくるわけですが、南直哉さんはこの問いに関しても様々な例を用いて「そんなものは何もない」と語ってくれれています。

でも一方で厄介なことは、「無常」の考え方、「一貫して変わらない私」、それ自体に根拠がないという事態においては、人間は根源的な”不安”を抱えてしまう、と。

だから、その不安の裏返しとして「本当の自分」への欲望が生まれているというふうに語られていて、これも本当にそのとおりだなあと、その論理の展開に感動してしまいました。

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僕らがこの根源的な不安を遠ざけて、「本当の自分」への欲望、その幻想を抱き続けるためには、自己同一性がいつまでもあるような錯覚をもたらす「何か」を調達しなければならなくなるのだ、と。

それが「神」的理念と「所有」の2つであると、南直哉さんは語ります。

この点に関しても、僕はめちゃくちゃ強く膝を打ったんですよね。

ここが今日一番強調したいポイントかもしれません。

たとえば、「普遍宗教」が提供する「万物の創造神」のごとき"絶対的存在者”。また、古代インド思想の「ブラフマン」や、古代ギリシャの「イデア」なんかもそうです。

絶対的なものをまずは想定し、その関係性において自己を相対的に存在させることを人間は考え出したわけですよね。「変わらない私」という幻想、その依代として。

これらは、すべて人間が直接的経験的に知ることができないものとされているのは、決して偶然ではなく、そうでなければ、通常の体験の範囲内の存在でしかなく、「絶対的」ではありえず、その「根拠」になりえないからなんだ、と南直哉さんは書かれてありました。

こんなふうに説明してもらえると、どうして人間が「神」的概念を作り出さずにはいられなかったのか、その欲求が本当に手に取るようにわかってくるなと思います。

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そして、もう一方の際限のない「所有」に関してもそう。

無宗教を自称する日本人にとっては、むしろこっちの話のほうが腑に落ちるのかもしれません。

再び本書から、少しだけ引用してみたいと思います。

「神」に託さないなら、あくまで「自己決定」に 拘らざるをえません。そうなると、「自己」の「自己決定」が不可能である以上、何かを「自己決定」することで、反転的に「決定する自己」を仮設し、そのリアリティを支えるために、今度は際限なく決定し続けなければなりません。すなわち、「自己」でないものを「自己決定」し続けて、仮設された「自己」を幻想的に支え続けるのです。 「自己決定」とは、要するに「自分の思った通りにする」ということです。それはすなわち、「所有」行為の核心的意味です。


つまり、常に何かを自己決定し続けるという、その「決断」をひたすらし続けて、「変わらない私」というものの根拠を立てるしかないと。

それが、「所有」という一連の行為において人間がなしていることなんだというわけです。

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で、問題なのは、「神」と「所有」によって間接的に「変わらない私が存在する」という幻想に溺れていたとしても、それは個人の自由なので、全くもって構わないのだけれども、どちらにおいてもその追求には終わりがない、際限がないことが問題なんだろうなと思います。

この問題点を別の言い方で言い換えると、これらを根拠に「普遍の自己」を想定しようとすると「必ず他者に迷惑をかけざるを得ない」わけです。

「所有≒資本主義的な発展」とも表現できるわけですから、この欲望には際限がないがために、SDGs的な議論にまでたどり着いてしまっている。それががまさに、2024年現在です。

また、一方で「神」にも際限がないことは、もはや言わずもがなだと思いますが、なぜ、改めて「神」的なものに際限がないのかと言えば、それが「絶対」であると信じるためには、それが絶対であるとして、世界中を布教し啓蒙してまわらないといけなくなるから、です。

「絶対」である以上、その絶対に対する「自らの承認の態度」=「信仰」を常に点検し続けて、ひたすらそれを強化していかなければならなくなるんだと南直哉さんは言います。

「絶対」は誰にとっても承認されるべきものだから、一度その「絶対」を承認した者は、当の本人だけの問題ではなく、いまだ承認していない者のところへ出かけて行って、承認するように説得する必要が出てくる。それが本人の信仰同様、最重要の責務になるからですと、本書には書かれていました。

これも本当にそのとおりなんだろうなと思います。

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つまり、世界中の隅々まで宣教していかないと、その「絶対性」を証明することができないわけです。

「神」的なものはそれが「絶対」でなければ意味がない存在なんだから、そのためにはどこまでも、それこそ宇宙に飛び出してでも、宣教しにいかなければいけない。

それが間違っていると思ったら、以前もご紹介したことのあるリチャード・ローティの「リベラル・アイロニスト」のような、ものすごく奇妙な態度にならざるを得ないわけです。


絶対的な神を信じているのに、他者においては進行の自由を認める、という極めて曖昧な態度です。でもやっぱり、このスタンスは「絶対性」において矛盾してしまう。

それはちょうど万能薬を持っているのに、自分からは明らかに病気に見える目の前の相手に対して、その万能薬を用いないような行為だから。

そうやって万能薬は使わないということは、これは万能じゃないということを自ら証明してしまうし、使った途端に、どこまでもその万能薬を用いて啓蒙・侵略しなくちゃいけなくなりますよね。

結果的に、原理主義的な思考となるひともあらわれて、「受け容れないなら、あいつらは殺してしまえ」ということになりかねないわけです。

そして、実際にそうやって「絶対性」を巡って起きているのが、ありとあらゆる戦争なのだと僕は思います。まさに、いまこの瞬間も世界中で起きていること。

戦争というのは、究極的には、この「”一貫して変わらない私”」という幻想を保つために、その根源的な不安から逃れるための「所有」のための資源をめぐる争いか、もしくは「神」的概念の絶対性をめぐる争い、この2つの論理に帰結するんだと思います。

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で、南直哉さんは「仏教には極めて特異な点がある」と語り、それはこの重大な根拠問題について、「神」も「所有」もどちらも否定してしまうからです、と語ります。

「無常」とはまさにそのことで、すると「自己」という根拠に関しては救いようがなくなるんだけれども、仏教は「根拠を求めて苦しむ人間に対して、根拠を与えて救う」のではなく、そのような人間の在り方そのものを解体することによって「苦しみを消去してしまえばよい」と考えるのだ、と。

僕はこの話をここで紹介することで、だからこそ仏教が万能であり正義であり、正しいと言いたいわけではありません。

そこはくれぐれも誤解しないでいただきたいポイントです。

でも、自己やその変化を感じ取りながら、それを通した世界を眺めたときに、何かがおかしい、なんか変だなという感覚に対して、見事にひとつの視点を与えてくれるお話だと僕は思いました。

だからこそ、今日のお話の内容で少しでもピンときた方には、ぜひ本書を実際に手にとってみてもらえると嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。