「集中すること」がいたるところで持て囃されているような時代です。

もちろんご多分にもれず、このブログの中でもビジネス書の中で異例の名著である『エッセンシャル思考』などの話題を何度かご紹介しながら、その重要性について繰り返し言及してきました。

そして、そのような時代の価値観の変遷の中で、思う存分に集中し、ゾーンに入って結果を出していく人たちも世の中にドンドン増えてきましたよね。

平成生まれのプロスポーツ選手たちなかを見ていても、それは強く感じます。僕らの世代とその集中(ゾーンの入り方)の次元がまったく異なるなあと。

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そのように、集中することのトレーニングを積み重ねてきた新しい世代と自らを比較して「自分はなぜこんなにも集中できないのか…」そう嘆きたくなる気持ちというのは痛いほどによくわかります。

また最近は、この集中することを良しとするような風潮に相まって、学校教育の「時間割」に対する批判なんかも行われていたりする。

具体的には、時間割によって断続的に学ばされるのは、時間で区切って軍隊や工場労働時代の負の遺産だといわんばかりに。もっと子どもたちの自主性や集中力を尊重しよう、と。

そして、子どもから老人まで本当に誰もが集中を良いものだと信じて疑わない。

そんな中で、自らはではどうしようもすることができないやむにやまれぬ事情によって、集中の時間が剥奪されることに対して腹が立つのも当然です。

そのイライラや焦燥感のようなもの、その遮るものに対して、ことごとく「悪」だと断定したくなる。ときには、可愛い我が子や家族でさえも、自らの集中を妨げる「邪悪な存在」とみなしてしまうわけですよね。

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でも、その中で最近僕がよく思うのは「人生なんてそもそも、集中できないもの」なのかもしれないなあということです。

「これまで言ってきたことと、完全に矛盾するじゃないか!」と思われるかもしれないですが、本当にそう思うのです。

具体的には、自らの集中を遮られるという状況下でも、いかに癇癪を起こさずにいられるのかのほうが本当に大事だなあと。

だから僕は、学校では集中と同時に、それと同じぐらい癇癪を起こさない心の態度みたいなものも同時に教えられるといいなと思います。

逆に言うと成熟するというのは、その集中を妨げてくる存在に対して、寛容になれることが大人と言えるんじゃないか。

一方で、集中を妨害されて、妨害されるがままに、そのことに対して批判的になって泣いたり喚いたりするのが、子どもなのだとも思います。

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この点、もちろん、選択と集中や断捨離のような概念というのは、変わらずに重要です。

でも、それでも遮られてしまうのも、また人生というものだ、ということを言いたいんですよね。

これは、先日ご紹介した内田樹さんの合気道の師匠である多田宏先生が、内田樹さんの「道場を作るにあたって心すべきことは何でしょうか。一つだけお教えください」という質問に対して「うん、変なやつが来る」と語ったというあの話なんかと、構造は一緒です。

人生も「開かれた道場」と同じようなものだと捉えたら、どれだけ準備してみても、思いもよらない変な妨害は必ず起きる。

その前提で、自らの人生を構えておく必要があるよねっていうことです。

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この点、僕らはあまりにも過度に「集中できている状態」を良しとし続けてきた結果、いま逆に苦しまなくていいところまで苦しんでしまっているんじゃないかと。

理想とされるマインドフルネスな状態だって、マインドフルな状況が一向に訪れないからこそ、現代において、持て囃されている価値観でもあるわけで。

誰もがカンタンに集中できる時代ならば、そもそもマインドフルネスなんて言葉がここまで一般化するわけがないですからね。

僕は、たとえ何か自らの思いもよらない出来事によって、その集中が途切れてしまっても、そんな自らの境遇や目の前にあることを、断続的に楽しむ能力のほうが圧倒的に大事だと感じます。

これは、以前もこのブログの中でご紹介したことのある、佐々木俊尚さんの「散漫力」の話にもつながる話。


言い換えると、遮ってくるものに対する「受けたもう精神」のようなものもすごく重要だなと思うのです。

何か厄介なことが、自らの身に降ってきても「あー、そうだよね、そうくるか」と、楽しみ学ぼうとする力。そして、そこから何かを発見し、気付ける力。

これもひとつの「問い続ける力」だと僕は思います。

不快だと感じ、その感情を確定させてしまった時点で、私の集中を遮るものはすべて「悪」になるわけだから。

でも、ここで何かきっと意味があるんじゃないかと問い続ければ、その意味の捉え方は、当に個人の受け取り方次第で、無限大に広がります。

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さて、とはいえ「そうとは思えないから苦労しているんじゃないか!」という声が聞こえてきそうです。

きっとここにおいても、コミュニティの力が重要になる。つまり他者の存在です。

具体的には、お互いに「喫茶去(きっさこ)」の精神を持ち合う、ということなんじゃないか。

ちなみに、この「喫茶去」というのは禅の言葉です。

原典は、公案『趙州喫茶去』だそうです。ちなみに、僕がこの言葉を初めて知ったのは、鈴木敏夫さんの『ジブリ汗まみれ』というラジオ番組の中。
    
じゃあこの公案は、具体的にはどんな話かと言うと、以下がそのお話になります。

高名な禅僧・趙州を訪ねて一人の修行僧がやってきて、趙州は言いました。
「ここに来たことがあるか?」

修行僧「初めてです」
趙州「お茶を飲んで去れ」

また別の修行僧がやってきて、趙州はまたもや言いました。
趙州「ここに来たことがあるか?」

修行僧「あります」
趙州「お茶を飲んで去れ」


さて、この「お茶を飲んで去れ」というのは、もともとの意味は、訪ねてきた者に対しての叱咤激励の意味だそうです。

一方で「どうぞ、ゆっくりとお茶を飲んでいってくださいね」という労いの意味もあるのだそう。

ここまで読んでみて、きっと意味わかんないかと思います。

僕も、この話を初めて聞いたとき、その意味が全くわからなくて激しく混乱しました。

二つの意味が完全に相反しているなと思ったし、その上でそこに何のつながりもないと思ったからです。自分で調べてみても、わかるような、わからないような解説でしか書かれていない。

でも、最近になってやっと「あー、たしかに同じことを言っているな」と腑に落ちたのです。

「とりあえずお茶でもどうぞ」と「お茶を飲んで去れ」は、どちらも同じように、目の前の他者の「ままならない人生」を素直に肯定し、そしてそれをそのまま励ましているんだということです。

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もしかしたら、ちゃんと修行をした禅僧の方からは「いやいや、全然そういう話じゃない」と言われてしまうかもしれないですが、僕はそのように解釈しました。

そして、コミュニティの場において必要な空間や求められている場も、まさにこの喫茶去の精神だなあと。

「人生なんて、集中できないものなんだから、気軽にね」という温かい気持ちで出迎えると共に、一方で「早く帰って、自分のやるべきことに全力で集中しろ」という叱咤激励も同時に必要になってくる。

過去に何度もご紹介してきた河合隼雄さんの言葉「冷たく抱き寄せ、暖かく突き放す」という言葉も、まさにこの喫茶去の精神そのものだと思います。

そのどちらの態度にも取れるような歓待に、僕らはとても励まされるものがあるんだろうなあと。きっとこれが片方だけだと物足りない。

だからこそ「喫茶去」と言い合える関係性を、これからも大事にしていきたいです。

実際、今のWasei Salonはみなさんのおかげで、本当にそんな空間になりつつあるよなあと思います。本当にどうもありがとうございます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。