徳を積む、それすなわち「ゴミを拾う、トイレを掃除をする、ひとの命を救う」というような行為だと考えるひとは、すごく多いです。

他にも何か利他的に振る舞ったり、他者貢献をしたりすること、それ自体が「徳を積む」行為だと信じられているような気がします。

それが結果的に、巡り巡って自分自身にも返ってくるのだと。

まさに、情けは人の為ならず、ということなのでしょう。

決してその考え方は間違っていないとは思いつつ、ただもう少しだけ丁寧に「そもそも、徳を積むとはどういった行為なのか」も、改めて考えてみても良いのではないかと最近よく思います。

徳を積む≒ゴミ拾いやトイレ掃除では、あまりにも短絡的すぎる気がするし、打算的すぎるなあというふうにも感じるからです。

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この点、例えば大谷翔平が積極的にゴミ拾いする理由について「ゴミは、他人が落とした運だから」と語ったというのは、とても有名な話です。

大谷翔平のように世間一般的に大成功している人間にそう言われると、彼はそんな運をかき集めて大成功したように思えてくるし、自分もそれにあやかりたいというのは、気持ち的にはわからなくはないですが、なんだかそれはとても心が貧しい状態と言わざるを得ないような気がします。

そして、それを聞いてゴミを拾い始めるといことは、やっぱり自分のメリットを最優先していることにほかならないと思うのですよね。

たとえるなら、初詣に行って自分の願望だけを、ただ神頼みしている状態と大して変わらない。ものすごく打算的な感じがしてしまう。

それは徳を積むどころか、むしろ減らしてしまっているのではないかとさえ僕は思ってしまいます。

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むしろ、自分にメリットがあるかどうか以上に、それが実を結ぶかどうかさえもわからないけれど、それを未来に淡々と贈ることができることが「徳を積む」行為だと思うのです。

自分が行ったことが発見されない可能性のほうが圧倒的に高いけれど、それでも、そんな願いや祈りを込めて、淡々と何か自分の損得の「得」には直接つながらないことを行えるかどうか。

僕が考える「徳を積む」行為とは、そのような状態を指しています。

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この点、以前「徳が高い」と状態とは何か、というブログを書いたことがあります。


その時に、書いた徳の高さの定義とは、「TPOをわきまえた言動ができること」でした。

そして、それはただの「お行儀の良い状態」とは異なるということも、この時に強く主張したかったことのひとつです。

徳の高い行為と、お行儀の良い行為というのは、外形的にはまったく同じに見えるはずなんですが、本人の内面の捉え方においては、その心的態度はまったく異なる。

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じゃあ、一体何が異なるのかと言えば、その見ている先や視座の問題なのだと思います。

具体的には、個人の「特殊意志」の総和である「全体意志」ではなく、ルソーの語るような「一般意志」を優先できるようなことが何よりも大切で、そこに資する行為だと自ら判断できれば、それは徳の高い行為だと僕は思います。

言い換えると、自分にとって多少窮屈に感じる行為ではあったとしても、それでもなお、それが「一般意志」に繋がる行為だと思えるからこそ自ら行うと判断できるような状態。

その行動における受益者が、自分だけでもなく、目の前の他者だけでもなく、過去も未来も含めたすべての一般意志に則する行為だと思えて自ら行えるかどうか、です。

それをちゃんと理解した上で行っていれば、徳の高い行為だと思うし、そうではなくただまわりに流されて多少の窮屈を漠然と我慢し許容しているだけなら、お行儀の良い行為にしか過ぎない。

そして、繰り返しになりますが、原因と結果、その因果関係の担保がなくとも「未来を信じて、贈ることができるかどうか」という視点が、本当に大事なのだと思います。

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さて、こうやって考えてくると、これっていうのは「個人の生涯だけで完結すること」じゃないことも、よくよくわかってくるはずなんですよね。

で、今日一番強調したいことは「徳を積む」ブームにおいて、あまりにも「個人」が前面に出すぎているような気がしてならないということなんです。

個人が行った行為、その中で自らの人生の評価が決まってしまうというような誤った認識に、みんな固執し過ぎなんじゃないかと。それが現世の「私」を苦しめてもいる。

きっと、これは西洋のキリスト教の教えの影響も強いんだと思います。

この点、以前、養老孟司さんがキリスト教の中で「最後の審判がある理由」について、非常に興味深いことを語ってくれていました。

養老さんいわく、一神教の世界には「最後の審判」というものがあるけれど、その意味は、この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受けるということであって、そのときまで過去から一貫している自分がそこに存在しないといけない。

つまり、これが西洋的な「主体性のある、変わらない私」を根本的につくり出している原因なんだと。

生まれる前も死んだ後も、私が私であるという思い込みというかフィクションの原型が、ここにあるような気がしています。

生まれる前も、死ぬ前も自分なんてものが存在したかどうかもわからないのに、個人を「今の個人」として過度に強調するわけです。

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何が言いたいのかと言えば、結果がどうなるのかはわからないけれど、未来に贈れるというときに大事なことは、むしろ「自らの境界線を溶かして行く行為」なんじゃないかと僕なんかは思うわけです。

具体的には、過去から現在に送ってくれた人も、あれは「広義の自分」だったと感じられて、未来に送った相手もきっと「広義の自分」だと思うことができると、自然と贈れるようになるはずなんですよね、きっと。

だって、それは他でもなく、自分自身に対して贈る行為なのだから。

たまたまその間にいる今の自分が「◯◯という名前の人間」という形をしているだけなんだっていうふうに捉えることが、できないものなのか。

過去から贈られたものを発見したのもたまたま「今の自分」だったし、何千年先の未来で発見する自分も、そのときの自分なんだろうなと思えるかどうか、です。

こういう話を聞くと「そんなのは、宗教の話だ!」といって毛嫌いするひとも多いかもしれないけれど、福岡伸一さんの動的平衡の話なんかをベースに考えてみると、文字通り、本当にすべてが自分だと思うことのほうが一番理に適っているはずなんですよね。

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そうなると、徳を積んだところで「今の自分」にとっては何の意味もないじゃないか!ってなるんだけれども、そうなんです。そもそも、「徳を積む」ことは今の自分に返ってくることではない。

だから、他人が落とした運を拾うというような、打算的な考え方なんかに惹かれて、それを真似しているようでは、たぶん徳を積んでいるとは決して言えないわけです。

それは、少しだけ因果関係の広い等価交換をしているだけであって、なおかつ占いみたいなものだからです。

ただ、ひとつだけ現世のこの自分に何かしらのメリットがあるとすれば、巡り巡って自らの存在、それがこの世界に存在していることを肯定できるようになることが、一番のメリットなのかもしれないなあと。

なぜなら、自己肯定感を高めるうえで、一番効果的な方法は、まさにコレだからです。

ここが意外とめちゃくちゃ重要なポイントだなと感じています。

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言い換えると、今のこの名前のつけられた個体としての私において、何一つメリットがなさそうな「徳を積む」という行為なんだけれども、それは「私の存在を、私自身で肯定する」という自己肯定感を、今の私に担保してくれるということなんです。

なぜなら、小さな徳を証拠のように積み重ねていく行為によって、自分が自分のことを「この世界に存在していても良い人間なんだ」と自分に対して素直に思えるようになるわけだから。

自然と、自らを言祝ぐこともできるようになるわけですよね。

過去の私から、今の私がちゃんと受け取り、未来の私に、今の私が贈ったんだと思えていれば、これ以上に自らがこの世に存在しても良いと思える理由、そんな自己肯定感に寄与することって他にないと思うんです。

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地位や名誉、お金や財産など、そんなものは砂上の楼閣でどこまでいっても論理を突き詰めれば、簡単に論破できる。

でも、この「徳を積む」という行為だけは、むしろ考えれば考えるほど、自分自身の中に蓄積されていくはずなんですよね。自らの自己肯定感を内面から深く根付かせてくれる確固たるものとして自らを支えるものとなるはずで。

他でもなく私自身が私に対して、こんな人間がいて欲しいと素直に願うことができるから、です。

「特殊意志の総和である全体意志」よりも「一般意志」を目指したほうが良いというのも、僕はまさにここに理由があると思います。

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現代は、ブラック企業の問題や、メンタル面の病の話がやたらとクローズアップされることが多いから、「自分自身を大切に」とか「家族を大切に」ということが広く語られることも多いです。

でも、そんなわけがないじゃないですか。

そうやって、世界から明確な境界線を引いて生物としての自己や、家族のことばかりを大切にしている人間ばかりが増えてしまったら、一体どうなるのか?

それは今の世間を見回してみれば、火を見るよりも明らかでしょう。

だから、本当はむしろその境界線を溶かしていく方向が大切で、それがつまり「徳を積む」ことが奨励されてきた理由でもあると思います。

自分を一番最後に、後回しにすること。届くかもわからない贈与を、淡々と未来に送り続けること。

そういうひとたちが世界に存在していたら、理論上(逆説的なんですが)世界が回らないはずがないわけですから。こうやって考えてくると「徳を積む」という教えは、本当に尊い教えだなあと思います。

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後半部分は、なかなかに伝わりにくい話をしてしまった自覚はあるけれど、でも今とっても大事なことだと感じます。

徳を積むことが大切だと漠然と考えたり、直感的に感じているひとが増えたりしているタイミングだからこそ、いまド真剣に考えておきたいことだなと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。