みんなが当たり前のように使っている「言語化」という言葉。

あるゆる立場にいるひとたちのあらゆる「言語化」という言葉の使い方を日々見聞きしながら、よくよくその意味するところを観察していて、僕がいつも思うことがあります。

それが何かと言えば、「言語化」のこと自体を、多くの人が「情報形式の変換」みたいな感覚で捉えているなあということです。

具体的に言うと、Aというバクっとした体験や想いがまず自分の中に確固たるものとして存在していて、それを言語化して、誰でも理解できる消化の良いAに変換するぐらいに捉えているなあということです。

これを誰もが理解しやすいような日常生活の中のわかりやすい話に喩えてみると、自分の手の中に今現在「白米」があって、それを鍋や炊飯器に入れて「ごはん」を炊くみたいなイメージです。

多くの人が、このような「米を炊く作業」のことを言語化と言っているようなイメージ。

百歩譲って、精米する前の玄米の状態が自分の中にあって、自分が行う作業は精米をし、米を炊いて人に振る舞ってもOKな状態に持っていくことを、言語化するって言っているような気がしてならない。

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でも、そもそも、僕が思う本来の言語化するっていう行為や作業は、もっともっと異なる行為であり作業なんですよね。

そもそも、このAという確固たるモノ自体が、自分の手の中にはまだまったく存在しないことが、言語化の前提条件の話であって。

じゃあ、言語化前には自分の手の中には一体何があるのかと言えば、あくまでその実がなる「タネ」程度のものであって、それを土に植えて、育むことこそが、まさに言語化という作業にほかならないと思っています。

これが具体的には、白米→ごはんを炊くという作業と一体何が違うのかと言えば、実った作物が本当に「お米」になるかどうかっていうのも、その段階ではまだ定かではないということなんですよね。

言語化して初めて「あっ、自分はこんなお米(稲)のタネを持っていたんだ!」と発見できる感覚のほうが、僕が実感している言語化という作業には近い。

つまり、言語化する前段階において、何が芽吹くかなんて、まったく検討もできていないわけです。

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さて、ここまでの話は決して、わかりやすい喩え話ではないかもしれないけれど、言語化という言葉の使われ方において、最近本当に強くよく思うことなんですよね。

で、ここまでの話を、昨日サロンの中でも投稿してみたら、Wasei Salonのメンバーのまいとさんがこの言語化の話を、なんだか「書き起こし」みたいですね、とコメントしてくれて、僕はこのコメントに強く膝を打ちました。たしかに本当にその通りだなあと。

世間一般的に言われている「言語化」は、「書き起こし」みたいな感じとして捉えられているフシが間違いなくある。

言い換えると、すでに「情報」としての素材は、ボイレコか何かにその音源というものがまずあって、それを文字起こしするような状態で、情報としては「音声→テキスト」その形式の変換と、多少の編集(順序の入れ替え)がある程度というような。

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で、ここまで考えてくると、次に不思議に思えてくるのは、なぜ僕らはそのような形式的な変換としての行為を「言語化」として捉えているのか、です。

言い換えると、なぜこのような認識に陥ってしまっているのか、です。やっぱり、そこには何かしらの原因があると思っています。

で、ここで僕が思うのは、きっと僕らが幼いころから小学校などで行わされてきた文章をつくる行為、その言語化の作業の大半が読書感想文や反省文、小論文のような形式だったからなのだと思います。

もしくは面接のような明らかに査定する場面で主に、言語化を求めらえるようなことが多い。

これらのタイミングにおいて、何か相手に求めらているものと異なることを話した場合、そのまま悪い評価につながってしまいます。

むしろ、目の前の査定する人間(他者)の中にあらかじめ存在している「正解」を文字化する作業こそが大事であって、僕らはそれを言語化として訓練させられてきた。

つまり、言語化するものが、決して自分の内なる感覚ではないためなのだと思います。

相手の頭の中にある「予測」を察知し、それを提示することが求められていたわけですよね。

これはまさに「情報の変換作業」そのものです。

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そして、そのような解釈のもと、言語化という作業自体が非常に面倒くさく感じられてしまうのも、当然のことだと思います。

だって既に存在する“正解”を、情報変換して論理構造を正しく置き換えるだけの作業は、あまりにも退屈な作業に思えてしまうから。

「時間があったらやろう」ぐらいに捉えてしまうのも何の不思議でもないなと思います。

別にそんなことをしなくたって、既に自分の手の中にはその言語化作業前の「A」、つまり精米前の玄米のようなものは、既に手中におさめているのだから、と。

僕だって、もしそのような作業を言語化と呼ぶのなら、あまりにも退屈過ぎて、絶対にやりたくないし逃げたくなるに決まっている。

少なくとも、毎日やろうなんて決して思わない。

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でも、そのような言語化前の状態というのは、本当はタネだけ持っているような状態であって、それをいつでも自分は収穫できるんだと誤解しているだけなんだと思います。

そして、往々にしてそのタネというのは大抵の場合は実らず、なんなら芽を出してもただの雑草のタネだったと知って、絶望する可能性のほうが圧倒的に高かったりもする。

逆に言えば、そのタネが雑草である可能性を無意識下で感じ取っているからこそ、ひとは意図的に発芽させようとしないのかもしれない。

でも、そこで勇気を持って言語化することこそが、ちゃんとじぶんにとって実りある果実を収穫するためにおいて、いちばん大事なことだと思います。

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こうやって僕も毎日毎日ブログを書き続けながら、自分が持っているタネをなんとか精一杯努力して発芽させようとしてみても、大抵の場合は雑草にしかならず、こんなものにしかならないのか、と日々絶望しながら書き続けています。

でも、毎日、毎年、長年こうやってずっと書き続けていると、少しずつ、過去のものと比べたときには、その発育状況が良くなってきたように感じられる。

もちろんベテランと比べると、まだまだ道半ば過ぎて本当に辞めたくなってしまうときもあるけれど、でも間違いなく自分の中での納得感や「これを言語化したかったんだ…!と、思える実感のようなものは増えてきた。

数十回のうち1回でも、そのようなたしかな手応えを感じられる体験ができることによって、かろうじて今も毎日、言語化する作業を続けられている。

そして、この喜びは、他では決して味わうことができない類いの喜びだなあといつも思います。

少々変な話だったという自覚はありますが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。