現代は、個々人ごとに友人や付き合うひと、所属しているコミュニティもバラバラで、いくらでもその場にいないひとの悪口を簡単に言えてしまうような世の中です。

そして、そのような耳心地のよい他人の悪口を、ある種の手土産のようにしてコミュニティを渡り歩いているひとも、現代には本当にすごく多い気がしています。

でも、どれだけそうやって悪口を手土産にして、目の前にいる相手との距離感を詰めようとしてみたところで、今こうやって見知らぬ他人の悪口を言っているということは、他のひとの目の前でも同じことをしているはずだと思われてしまう。

だとすれば、今度は自分が同様に悪口を語られてしまう対象になると、身構えてしまうのは人間として当然のこと。

なので、察しが良いひとというのは必ず、そういう禁断の蜜の味を振りまいて行商人のようにコミュニティを渡り歩いているひとには、一切近づかないようになるわけです。

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一方でじゃあ、それは良くないよねということで、真逆に振り切ってその場にいないひとのことをひたすらに褒めまくれば良いのかと言えば、決してそうでもない。

それが、この話の本当にむずかしいところだなあといつも思います。

どれだけその場にいない他者を褒めていたとしても、この人は、どこに言ってもこうやって良い顔をしお世辞ばかりを言っていて、どこにってもその場にいない人間を褒めているだけで、ただの八方美人なんだろうなと思われる。

特段の害悪はないため、別に共に居ても良いんですが、信頼感を持ってお互いの距離感が詰められるわけでもないので、別にいなくても変わらないという、当に無害さだけが取り柄の人間になってしまう。

これはこれで透明人間に等しく、人間関係が深まりません。

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では、果たしてどうすれば良いのか。

やはりここで本当に大切なことは、しっかりとその場にいない人間に対しても誠実に、そして忠実であり続けるということなんだろうなあと思います。

「なぜ、今さらそんなド定番の本を持ち出してくるのか…?」と思われるかもしれないけれど、これは書籍『7つの習慣』の中にもでてくるような「誠実な人間となるもっとも大切なことは、 その場にいない人に対して忠実になることである」という話にも、つながると思っています。

その場にいない人に誠実で忠実な態度をとれば、その場にいる人たちの信頼を得られるのだ、と。

具体的には、目の前に相手がいてもいなくても、間違いなく言葉にすることだけを言葉にすること、それが本当に一番大事なことだと思う。

逆に、二面性みたいなものは、本当に百害あって一利なしだと感じます。

大切なことは、この人は常に自分で考えて自分の意志で行動し、どこへ行っても自分の言葉で他者を称賛し、多少い言いにくいことがあった場合も、本当に言うべきことであれば本人にもしっかりと伝えるひとなのだろうなと思えること。

目の前にその相手がいようがいまいが、一切態度は変わらないと思えたら、僕らはきっとそのひとに対して、本当の信頼を寄せることができるはずで。

本書の中では、「正直は誠実さの一部であって誠実であることは正直以上のものである」と書かれてありましたが、僕も本当にそう思います。

具体的には、正直とは真実を語ることであり、言い換えれば、現実に自分の言葉を合わせること。これに対して誠実さとは、 自分の言葉に現実を合わせることであると。これは本当に同意です。

ただ、これができているひとは、本当に数少ないなあと思います。

もちろん僕自身も、まだまだそれが全然できていない。本当にいつも反省するところばかりです。

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さて、なぜ今日、唐突にこんな話を始めたのかと言えば、2024年に入って、このあたりは、誰もがしっかりと意識し、実際に実行しないといけないフェーズに入ってきたなあと思うからです。

なぜなら冒頭にも書いた通り、複数のコミュニティに所属する人が増えて、人と人との交流が以前よりも更に流動的になってきた。そして最近は、コロナも完全に明けて、人の動きも本当に活発になってきましたよね。

その結果、ジョブホッパーやコミュニティホッパー、ローカルホッパー的な人々も近年は本当に多いです。

昔のような閉鎖的な社会ばかりであれば、そもそも悪口を言ったらすぐに筒抜けになってしまうことも多くて、根本的に、構造的に、他者の悪口を語るにも語れないというひとも多かったはず。でも今は、誰もが簡単に別のコミュニティでその場にいない人間の悪口を言えてしまう世の中です。

また、現実世界に限らずに、SNSのような場所において複数の人格を使い分けることも簡単にできてしまう。

それはメタバースのような世界観が加速すれば、さらに容易なことになると思います。

そして、なんならそのような人格を使い分けることが、若い人たちの中では正しい行動だとされているようにも思います。

実際、匿名アカウントで他人の悪口を書き込んでばかりいて、その結果としてアテンションをかき集めているひとも多いですよね。でも、僕はそれが一番やっちゃいけない行為だと思うのです。

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どうしてかと言えば、それによって結果が出ないからじゃないですよ、それでしっかりと結果が出てしまうから、なんです。

でも、それは悪魔との契約であって、何よりも自分が自分のことを信頼することができなくなってしまうと思います。

このあたりは、先日の「徳を積む」という話にもつながってくる。



ありとあらゆる形で、数字として結果が出たとしても「このような人間に存在していて欲しくない」と自分自身が、自分に対して思うようになってくる。

金銭関係や対人関係などですべてがうまくいったとしても、一番根本の部分にある自己肯定感の部分が完全に崩壊してしまうことは、間違いありません。

これは以前もご紹介したハンナ・アーレントの「なぜ人を殺してはいけないのか?」という話、その答えにもつながる部分かもしれません。


どれだけ完全犯罪が可能な状況下であったとしても、やはり僕らは、絶対に人を殺してはいけないんです。

人を殺した、という事実を背負った自分とは、自分は死ぬまで一生一緒にいなければいけなくて、その事実が自らの自己肯定感をことごとく崩壊させてしまうから。

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最後に繰り返しますが、その場にいない人間の陰口を語り、甘い蜜を振りまくことで、簡単にその場にいる人々との距離は詰められる。

それは間違いありません。

でも繰り返しますが、それはゼッタイにやっちゃいけないことだと僕は思います。

むしろ、そんなときにこそ誠実に、その場にいないひとたちに対して、忠実に振る舞うこと。

それが結果的に巡り巡って、周囲からも、そして自分自身からも、このコミュニティ、この世界に存在しても良い人間であると太鼓判を押してもらえるかと思います。

常に、本人(たち)が目の前にいると思って、目の前にいても本人に向かって必ず言えることだけを語ることが、いま本当に大事だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているひとたちにとって、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。