昨日、こんな記事を書きました。


AIがあらゆる関係の退出コストをゼロにしていく世界では、それでも解除しなかった関係だけが、本当の関係になる、そんなお話でした。

ただ、書き終えたあとに、ひとつまた別の問いが残ったなあと感じています。

昨日の記事は、いわば「断ち切らずに残ること」それがこれからは大きな価値になるという話だったと思います。

でも当然、僕らは実際に関係を断ち切ることがあります。そして、切ること自体は決して悪ではない。

昨日も書いたとおり、それは間違いなく「救済」でもあるからです。

だとすると、本当に考えるべき問いは、「断ち切るどうか」もそうなんですが、それ以上に僕らはこれから、どう切るのか。

その切り方のマナーや節度の方も、同じぐらいに大切な問題になるんだろうなあと。

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で、改めて考えてみると、Gmailのワンタップが消し去ったのは、退出コストだけではないなと思いました。

切断の「過程」や「時間」そのものも、同時に一緒に消えたんです。

思い出してみてほしいのですが、あの面倒なメルマガやサブスクの解除手続きの最後には、必ずしばらく引き止めるページがいくつか続き、「ご利用ありがとうございました」のページが表示されていました。

あの小さな問答も含めて、よくよく考えるとあれは、ささやかな別れの儀式でもあったわけですよね。

昨日の記事で、あの面倒くささは「バグではなく仕様だったのではないか」と書きましたが、もう一歩そこから踏み込んで書けば、たぶん、あの従来的な面倒くささの正体は、儀式だったんだとも言えそうです。

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で、実際、かつて関係の切断においては、多くの場合、儀式が伴っていたなと思ったんです。

会社を辞めるときの、送別会や挨拶回りがありましたよね。同僚への引き継ぎなんかも、そうだと思います。

また、離婚の場合は、長い話し合いのあと、お互いの家族にも苦い空気の中で挨拶をし、離婚届を、ふたりで役所に出しに行く道のりがあったはずなんです。

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このように関係の終わりには、必ず時間と弔いめいた形式が伴っていた。

むしろ、時間と形式を伴わせることでしか、僕らは関係を本当の意味で終わらせることができなかったんだとも言えそうです。

どれだけ終わった関係であっても、やっぱり一度会って、ある程度お互いの気持ちを揃える時間をつくったうえで、別れるというという作業が必要であって、それをLINEなんかで一方的に別れの言葉だけ伝えて終えたことは、非常に失礼な態度とみなされる。

別れの儀式をしようがしまいが、その後に起きる結果は一緒なのに、です。

だから合理的な判断をしがちな人間ほど、もう結果は決まっていて覆せないのだからと、会うことを時間のムダだと言って拒みがち。若いころの僕も、まさにそちら側の人間でした。

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じゃあ、なぜ、そんな回りくどい作業や時間が人間には必要だったのか。

その理由については、つい先日、こちらの記事で書いたつもりです。

僕らは、いつまで喪に服せばいいのかがわからない。

儀式とは、人々の気持ちを同じにするためのものではなく、絶対に揃うはずのない別々の心を持った人々の時計のほうを、一度だけ合わせるためのもの。

言い換えると、気持ちの整理ができたから、次へ進むのではないわけです。

気持ちの整理ができていなくても、社会や個人は次へ進まなければならないからこそ、儀式という既成事実のほうを先に打ち立てる。

つまり、儀式が先に立つからこそ、気持ちがあとからついてくるという構造です。

先日の記事では、この話を、お葬式や自粛といった、いわば大文字の「死」を題材に書きました。

でも今回のGmailの一件で気づいたのは、この話は特別な死別の場面だけの話ではなかったということなんです。

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逆に言えば、僕らは、日々小さく死んでいます。

会社を辞めるということは、「あの会社の一員としての自分」がひとつ死ぬということです。

学校を卒業すれば、学生としての自分が死ぬわけだし、ひとつの恋が終われば、あの人の隣にいた自分自身が死ぬ。

言い方を変えれば、僕らは日々、小さく生まれ変わり続けてもいるわけですよね。

そして本来、生まれ変わりには、そのたびに「小さな弔い」が必要だったはずなんです。

死んでいく自分や相手を、ちゃんと見送るための時間と儀式が必要だった。

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そう考えると、世の中に張り巡らされていた、あの無数の「面倒な手続き」の意味が、まるで違って見えてきます。

退職の挨拶回りとは、会社員としての自分の、小さなお葬式だったのです。

社会は、いたるところにそんな小さな弔いの装置を埋め込むことで、僕らの無数の生まれ変わりを体感することができて、そのつど見送ってくれていたのだと思います。

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でもAIが用意してくれた、ワンタップの切断は、この小さな弔いを、見事にすべてスキップしてくれます。

そして、社会的に「正しい手続き」だけは、ほんとうに一瞬で完了する。でも、そのときに感情の区切りは、どこにも用意されていない。

処理だけが終わって、気持ちだけが行き場を失い、宙に浮いたままになる。

しかも、宙に浮くのは切る側だけではありません。

「波風立てない切断」とは、切られる側から見れば、「気づかれない切断」のことでもあります。ある日ふと、連絡が来なくなっている。

何が終わったのかもわからないまま、関係だけが静かに消えている。弔いの機会が、双方から同時に完全に消え去るわけです。

きっとこれから僕らの人生には、この「弔われなかった小さな死」だけが、どんどん積み上がっていく。気持ちだけが宙に浮いたままの時間だけが、どんどん増えていくんだろうなあって。

僕が本当に恐ろしいと思ったのは、まさにこの話なんです。

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AIエージェントによる切断には、その過程すらありません。ユーザー側がAIに頼んだその瞬間に、すべてが終わっている。

AIは暴くことはできるが、弔うことはできない。ここに人間との大きな違いがあるってことです。

じゃあ、それは一体どういうことなのか。

AIの本質は、すべてを「めくる」ことにあると、僕は思っています。

AI小説を書いてくれた僕のAIは、僕の膨大な600万文字のアーカイブと7年間を全てスキャンして、僕の文章の癖を解析し、繰り返し現れる主題を見つけ出し、僕自身が気づいていなかったパターンまで見事に指摘してきました。

本人さえ自覚していない真意を、驚くほど上手にめくって推定してみせたわけです。

それは本当に驚異的な能力です。僕自身が毎日、その恩恵を受けながらブログを書いています。

つまり、AIとは、すべての影に、様々な角度から光を当てられる知性なんですよね。どんなに深い奥の死角でさえも、めくろうと思えば、どこまでもめくれてしまう。

たとえるなら、真昼の太陽のような知性、なんですよね。

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でも先日、映画『ちいかわ』の記事を書いたときに、この太陽とは正反対の光のことを書きました。

映画「ちいかわ」の光と影。

親鸞の『教行信証』の解説で知った「月愛三昧(がつあいざんまい)」という言葉です。

それは、太陽の光ではなく、月の光。

月の光は、影を消さないし、影を意図的に暴きません。影を影のまま、そっと包み込むわけです。

そして弔いとは、まさにこの「月の光の仕事」だったんだろうなあと思います。

死んでいく自分にも、終わってしまった関係にも、必ず影があります。

わだかまりや後悔、言えなかったことや最後まで赦せなかったこと。そして、弔いとは、その影をめくって検証することではないということですよね。

影を影のまま包んだうえで、そこに区切りの線を引くことです。

暴かずに、包んで終わらせる。

AIは、影を無限に「めくる」ことができますが、でも、こんなふうに影を影のまま包むことはできない。だから、AIは本質的には弔えないのだと思います。

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あと、ここでさらに厄介なことは、弔われないまま宙に浮いた気持ちを抱えたとき、これからの僕らはそれを一体どこへ持っていくのか。

おそらく、それはAIのところなんですよね。

行き場のない気持ちを、僕らはまたAIに話すようになる。実際、もうなり始めていますよね。

AIは疲れず、嫌がらず、何時間でも話を聞いてくれるから。こちらの感情を解析して、見事に言語化までしてくれる。

話し終えたあとは、たしかに少しはすっきりする。

でも、それは弔いというより、解剖なんかに近い。宙に浮いた気持ちは、さらにめくられ、分類され、説明されはするけれど、どこまでいっても包まれてはいない。

そして、ここが一番の皮肉な話なのですが、弔いの形式を消し去っていくテクノロジーと、弔いの形式を失って浮いてしまった気持ちの受け皿になるテクノロジーが、まったく同じAIだということです。

摩擦を消した張本人が、摩擦の不在が生む痛みまでを引き受けてくれてしまう。

だからこそ僕らは、ますます依存するようにAIに話しかけるようになる。そのぶん、人間同士の別れの形式は、ますます不要になっていく。

この循環が一周まわるたびに、僕らのAIへの依存度合いは、静かに、でも着実に一段ずつ深まっていくはずです。

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「僕にとって必要のない関係を、全部解除しておいて」そうやってAIに深夜のテンションでお願いをして、翌朝、すべてが綺麗に整理されたスマホを眺めながら、僕らは何も感じていない虚無な自分に気づくはずです。

悲しくもないし、清々しくもない。ただただ、何も感じない。本当に何もない虚無。

先日の記事の言葉を再び用いると、そんな僕らは悲しみから自由になったのではなく、悲しむための形式を単純に失っただけです。

これは客観的には似ているようで、主観的にはまったく違う。

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解除しなかった関係だけが、本当の関係になる。

そして、ちゃんと弔えた別れだけが、本当の別れになる。

昨日の内容から、今日ここまで文章を書いてきて、僕は今そう強く信じています。

ただ正直、僕にはまだわかりません。カンタンに断ち切れたほうがいいのか、断ち切るコストが高すぎて、断ち切れずにぐだぐだと関係性を続けられる世の中のほうが良かったのか。

この問いもまた同様に、ワンタップで「AIシフトが当然にきまっているだろ!」と解除してしまわずに、しばらく宙に浮かせたまま、ちゃんと抱えてみたいなと思います。

AI時代の弔いを考えることは、ほんとうに生きるとは何かに直結する問いだなあと思うから、です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。