日本は他者の目を気にする「恥の文化」だと語ったのは、『菊と刀』を書いたルース・ベネディクト。
また「空気を読む」や「横並びが大好き」など、世間を過剰に気にする日本人の習性は、近年ネガティブなものとして語られることが多いです。
でも、最近強く思うことがあります。
これらの習性(価値観)がなければ、日本人の美意識は決して生まれてこなかったのではないか、と。
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ここで言う日本人の美意識とは、具体的にいうと、
鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』に代表されるような仏教的な無情感や、
世阿弥の『風姿花伝』に代表されるような幽玄さ(奥深く余剰のあるさま)。
そして、千利休の茶道にあるような侘び寂びの文化などです。
これらはすべて過度に他者の目を意識するからこそ、生まれてきた文化でもあると僕は思うのです。
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国民全員の価値観や足並み(ライン)が揃っているからこそ、ある種のカウンターとして輝く文化になり得る。
いわゆる欧米の「罪の文化」の中では、ただ貧相、ただ貧困のように見えるだけでしょう。
「人種のサラダボウル」と呼ばれるようなアメリカや、神が世界を想像したと考えるようなヨーロッパでは決して成立し得ない価値観。
「世間的にも横並びを強要されて、その価値観から怖くて逸脱することができない。」
その日本人特有の窮屈さや違和感が、結果としてこれらの日本人の美意識をより一層輝かせている。憧れの対象として成立させ得る。
そう考えてくると「全ての悩みは、対人関係の悩みである」と語ったアドラー哲学の『嫌われる勇気』が、日本でベストセラーとなったのも、日本人にとっては、それがものすごく納得感のある考え方だったからなのかもしれません。
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この日本人の習性と、日本人の美意識がトレードオフの関係にあるとまでは言いません。
ただ、いま自分たちが忌み嫌っている日本人の習性こそが、実は自分たちが誇っている日本人の美意識や文化の源泉であり、その生みの親なのかもしれない。
そんなふうに捉えられるようになると、また世界が違った景色に見えるかなと思ったので、今日のブログにも書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話がなにかしらの参考となったら幸いです。
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