現代人は、自らの役割がないと無性に不安になる生き物です。

会社や学校、社会人コミュニティなど、ひとが複数人集まってコミュニティをつくり出している場所において、自分だけ何もやることがなかったとき、なぜかひとは無性に不安になってしまうもの。

だから何かしらの役割が明確にあって、働くための仕事があるということは精神安定剤的な役割も果たしているのだと思います。

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では、なぜひとは役割がないとすぐに不安になるのでしょうか。

きっと、役割というのは「その場にいてもいい人間になることができるから」だと思います。

一番わかりやすいのは「働かざる者、食うべからず」という格言。人間が共同体をつくるときに、そのひとがその場で「食う」こと、つまり共同体内で共有している限りある資源を、そのひとが消費してもいい理由が必ず必要になってくる。

そして、この格言は裏を返せば「働いているものであれば、誰であっても食ってもいい」というわけです。

言い換えれば、働くという役割さえこなしていれば、必ずその構成員としての正当性が他の構成員から認められる。

これが「役割」の本来的な意味なのだと思います。

共同体の成員全員に対して、この人間がここにいることの正当性が付与されるというような状況を作り出すために、事後的に生まれたものが「役割」であると言っても過言ではないのかもしれません。

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そう考えてくると、人間社会が「身分制度」や「男女の役割」を長い歴史の中で明確に定めてきてしまった理由も、ある程度は理解できるようになってくるかと思います。

そうすることによって、子供から老人まで文字通り老若男女が、その役割をしっかりと演じている範囲内では、その共同体の構成員として無条件にそこにいてもいいことになっていました。

「なぜあいつがここに居るんだ」と排除されそうになったときにも、「彼(彼女)には共同体内の役割があるから」と客観的な説明が可能となるわけです。

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ただし、現在の世の中では、逆にそのような固定化された役割の存在自体がネガティブに捉えられるようになったわけです。

食物などの資源も、有限とは言え潤沢に存在するようになり、飢餓の恐れも極端に低くなりました。

その裏側では、個人主義が台頭し「自由」であることが生きるうえでの再優先課題となり、役割の押し付けによって「個人の自由」が侵害されることのほうが害悪だと見做されるようになってきたわけです。

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でも、そうなってくると、必ず世界は「椅子取りゲーム」のような様相を呈するようになる。

自分で自分の役割(仕事)を見つけたり、つくり出すことができるひとたちが、いいポジションを獲得していくことは必定となる。

一方で、最初から役割が明確に振り分けられている従来型の社会であれば、必ず各共同体ごとに「欠席」や「空席」は存在しているわけです。

自分の外形上(生物学的な見た目、家柄や血筋)に合わせて、勝手にその空席に当て込まれていくわけだから、居場所がなくなることはなくなり、たとえそれがどれだけ不本意な居場所だったとしても、私の居場所がなくなるということは理論上はありえないわけです。

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誤解されないように、ここで強調しておきたいことは、僕はどちらが良い悪いという話をしたいわけでありません。

そして、もちろんこれからの世の中は、間違いなく「自分で自分の役割を創造していく」そんな世界になっていくとは思いますし、実際そうなりつつあります。

ただし僕が思うのは、そうなっていくのであれば、日本の中で「日本人」という国籍(つまり広義の役割)があれば、日本人としての人権が認められ「健康で文化的な最低限度の生活」が憲法25条で保障されているように、

役割を持たない人間であったとしても、常にその場に存在していてもいいとするような、「役割」を持たない人間の尊厳を認めるような上位概念を僕らは社会的に新たに獲得し、各人がそれぞれ身につけていく必要があると思うのです。

簡単に言ってしまえば「働かざる者であっても、存分に食ってもいい」とみんなが心の底から信じているというような状態。それは「人権」という概念がこの世界に生まれてきたことに匹敵するぐらい、とても重要なことのように思います。

突拍子もない話ではありますが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。